健康づくり

健康づくり 健康を守り育てるためには、
(1)正しい栄養
(2)適度な運動
(3)十分? 生涯にわたって動くこころとからだをつくり、守るための支援をします。

17/04/2026

皆さんは、運動が健康にいいということはご存知だと思いますが、ではなぜ運動は健康にいいのでしょうか。
カラダを動かすことはエネルギーを消費することだというのは、カラダを動かした後にお腹が減るので経験的にわかります。では、エネルギーを取り入れるのではなく、エネルギーを消費する運動がなぜ健康にいいのでしょうか。それは「エネルギーを消費する過程がエネルギーを供給する過程を変える」からなのです。
どういうことかと言いますと、カラダの中に備蓄している限りあるエネルギーから大量のエネルギーを利用できるようにするためにはエネルギー供給システムを効率化する必要がありますが、エネルギーの消費過程そのものがそれを行っているというわけです。これこそが生命が環境の変化に適応するために獲得した適応能力であります。
カラダは繰り返しエネルギーを消費することによってエネルギー供給システムを生命維持に適したシステムに強化していくのです。
たとえば、人間は高所にも馴化します。二、三週間のうちに、低地と同じように活発に歩き、走るようになります。酸素が希薄な高所に長期間滞在したときは血液の中に酸化ヘモグロビンとして存在しているヘモグロビンと酸素との結合力を弱め、少量の血液で組織が必要とする大量の酸素を運搬できるように適応する事実があります。
動物はカラダを動かさなければ、内部環境の「恒常性」を健全に維持できないほどに、運動が生命の維持に不可欠のものとして運命づけられています。
動物は、食物を採取したり、害敵から身を守ったり、安全を確保するために「移動」という手段を用いることができますが、人間が他の動物と違うのは、単に「移動」を適応のための手段として用いるだけでなく、この適応能力を高めることができることを知っています。またこれをうまく活用することができます。
私たちは、この人間が本来もっている優れた適応能力を善用すべきでしょう。社会的使命を果たすためにも適応能力を高めることが、その第一歩になります。

02/04/2026

私たちは、真の自己を確立するために、何をなすべきか、何をなさざるべきかを、正しく判断し、自由な意志をもって実践しようとするのですが、しばしば思うにまかせぬ自分自身に遭遇することがあります。
善を欲しながら、これを行うことなく、かえって欲しないところの悪を行う自分自身を見出し、大きな疑問を抱きます。人間には果たして自由意志などというものがあるのだろうか、という疑問です。
仏教経典の中に「アーラヤ」という言葉が記されています。「アーラヤ」という言葉は古代インドの言語サンスクリットで、「欲望」もしくは「貪欲」を意味していると考えられています。
中国の学僧たちがこの「アーラヤ」の音をそのままに写して「阿頼耶」と翻訳しました。
いわゆる唯識学派の学説では、煩悩というものは、この「阿頼耶」によって生じるのだといいます。
見たこと、聞いたこと、考えたことが自動的に処理され、自覚的に意識にのぼらないうちに私たちの行為を左右するのです。
今日では、人間の意識下の深いところに蔵されているものを明らかにしようとする深層心理学的な研究が進められています。
フロイト(1856~1939)やユング(1875~1961)が無意識の心の存在を提唱したのは70年ほど前のことですが、心の問題を深く考察してきた仏教では1600年前にすでにその存在を説いています。
草木は、時がきて芽を生じ、花を開き、実を結びます。私たちは、ともすればそのいとなみに眼をうばわれていますが、それらの現象は地下の眼に見えないところに存在する種子に本源があります。それと同じように、人間の意識、思考は、私たちの意識下の深いところに蔵されている言葉では表現のしようのないものによって生じてくるのです。それが「阿頼耶」と呼ばれるもののいとなみなのです。
私たちはどのように自分が行動しているか自分の行動に深く注意を払う必要があります。
仏教では、まず心をととのえて、それにしたがって物言い、行うがよいとします。自分の心を鎮め、慎重に行動することは、いずれは必ずよい結果をもたらすはずです。自分の中に知りえない何者かがあって、この混沌としたものが種子となって花を咲かせるのです。

20/03/2026

私たちは普段、「幸福」に到達するための「道」があると考えています。「今日私たちは苦労を受け容れよう。しかし、明日は豊かな暮らしが訪れる」というとき、幸福は「目的」であり、道は「手段」です。「目的」と「手段」とに分けて考えると幸福から遠ざかってしまうことにはならないでしょうか。
ベトナム戦争のさなか停戦を訴えて活動した禅僧ティク・ナット・ハンは、
「幸福への道はない。幸福は道である」
といいました。
平和へのプロセスはやはり平和でなければなりません。平和の名において暴力を用いるのはまちがいです。もし手段が平和的なものでないならば、平和はありえません。
平和のためと言いながら爆弾を投下したり、銃で人を撃つならば、それはまちがいです。手段が暴力的であれば、結果も暴力的でしかありません。平和への道はその一歩一歩が平和でなければなりません。
それと同様に、幸福であり続けるために苦しまなければならないとすれば、それもまたまちがいです。幸福への道の一歩一歩が幸福でなければなりません。目的と手段はひとつなのです。したがって幸福への道はすなわち幸福だというのです。
ティク・ナット・ハンと相通じることを、曹洞宗の開祖道元禅師は次のように述べています。
「それ修証はひとつにあらずとおもへる、すなわち外道の見なり。仏法には、修証これ一等なり」
修行と悟りは別々のものだと思うのは、仏教以外の見解だというのです。仏法では、修行と悟りはひとつだと道元は説いています。
道元の教えは、目的と手段とに分けて考えることの弊害に気づかせてくれます。「目的」と「手段」とに分けて考えることは純粋であるべき「修行」を人間の欲望で汚していることになります。
何かのためにその行為を行うのではなく、その行為を行うこと自体に価値があり、意味があります。たとえば、楽器の演奏やダンスはそれ自体愉しいので演奏するし、踊ります。
その人の心の本性に調和していることで、なおかつ、遂行できる能力を具えているときには、緊張や疲労を生み出すことは決してなく、自然に行動自体が喜びとなるのです。
喜びをもって行動ができることはとても大切です。なぜなら、その行動に知性や創造性を最高に発揮できるからです。

05/03/2026

人間は他の動物と違って二本足で立っています。これは四本足に比べたら不安定で、人間は、常にバランスをとっていなければならない存在だと言えます。
人間が直立するためには、関節を固定して常に姿勢を安定させた状態に保たなければなりませんが、そのように意識的に筋肉を緊張させたり、弛緩させることができません。これでは姿勢を一定に保つということは不可能でしょう。ところがそれができるのは無意識にカラダをコントロールする働きがあるからなのです。それが姿勢反射というしくみです。
私たちは常にカラダのバランスをとっているのですが、そのことに気づきません。姿勢反射というしくみは、たとえば猫を空中に放り投げると、すばやく立直って四肢で安全に着地します。これが姿勢反射です。姿勢の保持は無意識的にスポーツや日常の動作の中にもたえず現れています。
姿勢反射は、筋からの張力の変化に応じて情報が反射中枢に伝達され、また三半規管から発せられたカラダの揺らぎについての情報や、その他視覚や深部感覚の情報を総合して、目的に適うようにバランスよく調節されています。とくに深部感覚は姿勢保持にとって決定的な役割をもっています。
動きについてはどうでしょうか。歩くとか、坐る、立つといった運動についてはわたしたちはふつう意のままにコントロールできるので随意的だと考えます。しかし、事実はどうもそうではないようで随意的でもあるし、不随意的でもあると考えたほうがいいようです。
意識的には何かの動作を遂行しようとしてもカラダは、無意識的にバランスが崩れないように指令を出します。そのため動作そのものの精度を低下させてしまうことがあります。何かをやろうとすれば、まずバランスをとることが最優先なのです。
何かをやろうとするときにはついついカラダをコントロールしようと頑張ってしまいます。それでは不自然でぎこちないことになってしまいます。不随意的の働きを受け容れることが必要で、そのためにはカラダをコントロールしようとする意識を手放し、私たちの中の自然の働きにまかせてしまうことがとても重要です。
私が「そうする」のではなく、自ずと「そうなる」のです。トップアスリートと呼ばれるアスリートが神がかり的なすばらしいプレーをして観客に感動をもたらすのもそういうときではないでしょうか。

21/02/2026

わが国にお茶が渡来したのは、鎌倉時代に栄西(ようさい)禅師が、中国から帰朝の節、茶の種を持ち帰り、肥前国の背振山にそれを蒔き、また京都栂尾の明惠上人に贈ったことにさかのぼります。その後明惠上人が宇治の里人に苗を与え盛んに栽培されるようになりました。
栄西(ようさい)禅師は、「茶は養生の仙薬、延齢の妙術なり」(『喫茶養生記』)と喫茶の薬用価値を説いています。
茶の湯の起源は、禅僧たちの始めた儀式でした。独立した茶席が成立しない初期の室町時代には、広い書院で茶を点(た)てました。簡素な草庵の茶の湯は村田珠光(むらたしゅこう)によって創案されたのがはじまりです。それまでの茶の湯は、書院の茶の湯で、茶碗その他のめずらしい道具を鑑賞することが主となっていました。純潔な小座敷の茶の湯は、千利休によって大成されました。草庵の茶の湯は道具の鑑賞が主ではなく、どのようにすれば、人に喜んでもらえるか、ということです。
「わび茶」に関して書きのこされている文献はごくわずかですが、泉州堺の僧の南坊宗啓が利休の語った話を書きとめた『南方録』には、
「小座敷の茶の湯は、第一仏法を以て修行得道することなり。家居の結構、食事の珍味を楽しみとするは俗世の事なり。家はもらぬほど、食事は飢えぬほどにてたることなり」
とあり、仏法を学び、仏法にかなうように修行することが肝要であるということが分かります。
利休の孫の千宗旦(そうたん)の歌に、

茶の湯とは心につたえ眼につたえ耳につたえて一筆もなし

というのがあります。この和歌は「文章にも言葉にも言い表わせない」わび茶の精神をよく伝えるものとして有名です。
また、茶の湯の世界では椿にまつわる次の逸話が伝えられています。早咲きの椿が咲いたので飛鳥寺の住職が宗旦(そうたん)のところへ使いの者に届けさせました。ところが、使いの者が途中で椿を散らしてしまいました。やむなく落ちた椿の花を拾い、枝に添えて届けました。
宗旦はねんごろにこれを受けとり、掛け花入れに枝を入れ、その下に落ちた風情に花を置き、使いの者の労をねぎらい、茶をもてなされたといいます。
「宗旦椿」として語りつがれています。

05/02/2026

食物、睡眠、身体活動など生活様式が変わると健康によい影響を与えることがあります。環境が変化すると、新しい状況に対応しようとして、直ちに生理的、精神的活動が活発になります。
環境の変化に対する適応反応はどのような形で現れるのでしょうか。反応の仕方は、各個人の特性に応じてさまざまです。ある者は闘争することによって適応します。またある者はそれから逃避することによって適応しようとします。
カラダは活力を増し、困難に打ち勝つための大きな力を得ます。適応力によって人間は、逆境にも頑強に対応することができます。カラダは外界の変化には全器官をあげて活動を始め、変化に対応するのです。適応力は組織およびカラダ全体がもっているばかりでなく、組織を構成しているそれぞれの細胞も全体のために働くように思われます。それは暑さ、寒さへの抵抗力も同じです。ところが、私たち現代人は、祖父母の生きていた時代とは違って寒さにも、暑さにも、エアコンのある部屋やセントラル・ヒーティングの家に閉じこもっている時は、生得の適応能力は休止状態のままです。
私たちは、現代文明が作り出した生活様式によって環境に適応しているので、もはや生理機能に頼ることはないのです。
現代生活は、身体活動の機会が極端に少なくなっています。筋肉を使う仕事は機械にとって代わられ、その結果それとは気づかずに身体活動を抑制してしまっています。
このような現代生活のスタイルは、真っ直ぐ退化へとつながります。脳も筋肉と同じように、訓練が不足すると退化します。活動が十分でないと、退化という形で適応するのです。適応力のような重要な機能は、使わずにおけば必ず肉体と精神の退化という代償を支払わねばならなくなります。
肉体と精神の発達には、筋肉を運動で鍛えるのと同様、訓練が必要なのです。筋肉は活動すればするほど発達します。活動すると消耗もしますが、発達もします。生理的機能も、精神的機能も、活動すれば増進するということは疑いようのない基本的な事実です。
適応力は、必要でない時にはなしですますことができるようなものではありません。単に病気の原因から身を守るだけでなく、適応能力を高めるようにこころがけましょう。

22/01/2026

現代人は頭で考えたことを知恵と思っているようです。昔の人は頭で考えたことを超えた深い知恵があることを知っていたのですが、残念ながら、そういう価値観が失われています。
室町時代の高僧夢窓国師は、「本分の大智」という頭で考えたことを超えた知恵についてあえて言及しています。本分の大智は、身心の中にも、身心の外にもなく、山川草木すべてこの中から生じたということで、仮に本分の大智と名づけられているのだといいます。
また、夢窓国師は、その本分の大智は人びとに生来具わっているけれども、知恵に妨げられて現れないとも説いています。
知恵が修行の道の助けとはならないばかりか、かえって妨げとなるというのは、どういうことなのでしょうか。
世の中の一般の人はただ単に愚かさを改めることを知恵と思っているが、それは真実の知恵とはいえないということです。書物などの文字や言句に随って理解したことは真理の探究の妨げとなって、たとえば酒に酔った人のように妄想を見ることになります。
したがって、真理を探究するには、自己がさまざまのはかりごとをめぐらして得た知恵をすべて捨てなければなりません。知恵を手放なせば、かならず本分の大智が現れると説いています。
夢窓国師は、知恵が修道の助けとはならずに妨げとなることを、「筏の喩(たと)え」という教えをもって示されています。
旅人が大きな河を見て、向こう岸に渡ろうと思い、筏を作り、その筏によって河の向こう岸に無事着くことができました。そこで旅人が、「この筏は大変役に立ったから、肩に担いで行こう」と思ったとしたら、それは正しいことと言えるか、というお釈迦さまの問いかけです。
筏が大切なのは大河をわたり彼岸に至るためです。たとえこの筏がどんなに役に立ったとしても、愛着してこれを捨てないのは、賢明なこととはいえないでしょう。
筏は混迷の大河をわたり彼岸に至る知恵を意味します。愚人よりは優れているといえますが、一時的に役に立つだけのことです。知恵を捨て、自己の未熟さを自覚して坐禅などの修行に励めば、やがて時機が熟して本分の大智が現れるのだといいます。
知識や言説を好んで、本分の大智を求めなければ我見にとらわれてしまって他人よりも優れていると信じ慢心を起こします。本分の大智にかなう人は慢心を起こすこともありません。
知恵を得たという思いもなく、怠惰の心も生じなければ障害は自ずから消滅するでしょう。

31/12/2025

エネルギー資源の枯渇や森林の減少など環境に関わる異常が増えています。
生物は水、空気、食べ物がなければ生きられません。
森林は酸素と水を供給しています。森林が減少すると、水、空気、食べ物などの生存基盤が弱くなります。その森林がかつて無かったスピードで破壊されています。
また、現状の生活は石油、石炭などのエネルギー資源の大量消費によって支えられています。残り少ないエネルギー資源の枯渇が近づいています。
こうした生存基盤の破壊やエネルギー資源の浪費などは人類だけではなく生態系全体に非常に大きな問題となっています。このままいったら私たちの生活はどうなるのでしょうか。
幸せとは物質的に豊かになることでしょうか。お金やぜいたくのように他と比較して自分が優位であると思ったときに感じられるものは一見幸せのように見えますが、本当の幸せとは別のものです。
私たちの毎日の仕事はほとんどお金のためではないでしょうか。「もっと、もっと」とお金を増やそうと努力します。
「クルマがないと生活できない」と思っている私たちは本当に豊かになったのでしょうか。
そもそも豊かさとは何でしょう。本当の豊かさとは、多くを消費することや多くを所有することではないはずです。
近代、個人主義という考えが主流になっています。私たちの社会は個人の名声や富への願望に支配されてきました。その結果、多くの人が精神的な伝統を切り捨てて欧米の物質的な豊かさを求める価値観ばかりを模倣しています。
その根本原因は何でしょうか。それはむさぼり、いかり、ねたみ(貪・瞋・痴)です。この三つの毒は私たちの生まれながらにしてもっている美しい心をくもらせています。そして私たちは互いに結びついている真実を知らず、ちっぽけな一部分ににすぎない自我にとらわれてしまっています。
今私たちがなすべきことは、個人主義の桎梏(しっこく)から自由になることです。
脳を研究している科学者が発見したところによると、脳の各ニューロンは絶えず他のニューロンとコミュニケーションをとっているそうです。脳神経細胞のニューロンが別の脳神経細胞のニューロンと信号をやりとりしています。ニューロンは一つの共同体としてともに協力しながら生きているのです。
個人主義から解放されるには、この脳神経細胞のニューロンのように行動することです。たとえば、お互いに顔がわかり、気心がわかる小規模の自給自足の共同体を構築するといったことです。みんなで話し合い、納得したことをみんなで協力して実行するのです。
あるいは不要になったものを譲り合ったり、自動車も月に数回しか使わないのであれば、みんなで共同で使用したならば、所有する必要はありません。
未来は同時にたくさん存在します。未来は変えられるのです。

18/12/2025

江戸時代の白隠禅師は、「動中の工夫、静中の工夫に勝(まさ)ること百千億倍す」という言葉を遺(のこ)しています。
禅門では、掃除をしたり、庭の草むしり、木の伐採など、生活にかかわるすべてのことを「作務」といいます。作務は、カラダを使って学んでいく修行です。坐禅が「静」の修行だとすれば、作務は、「動」の修行です。つまり、「作務の工夫は坐禅の工夫よりはるかに勝(すぐ)れている」と言っているわけです。
では、「工夫」とはどういうことでしょうか。国語辞典によると「よい方法を考え出すこと」とありますが、そういう意味の「工夫」と、ここでいう「工夫」とはまた違うような気がします。「工夫」をわかるには、その背景にある仏教の基本的なおしえを理解する必要がありそうです。仏教の基本的なおしえとは、「無常」です。「無常」とは、すべて存在するものは絶えず移り変わっているということで、その事実を受け入れて、なお人生の一瞬一瞬をすべて大事にしていこうというのが仏教の説くところです。
もう一つの基本的なおしえは、「無我」です。この世のすべての物事は「縁起」によってなりたっているだけで、自我という本性がありません。自我という本性がないのだから何かを得たり失ったりすることもありません。
現代人は自分というものへの執着が強すぎることが、多くの人の悩みの種になっていると思います。もともと自分などないのに、あると思っているから苦しい思いをするのです。
自分の知覚や自分のカラダを否定することは創意工夫を必要とします。しかし、それは単なる受動的な態度でも能動的なそれでもありません。
自分のからだをコントロールすることによって物事を作り変えるのではなく、自分と他という異なるものとが徹底して一つになることを意味します。
たとえば、庭を掃くときは、他のことを考えず、庭を掃くことだけに集注するのが動中の工夫です。完全に集注しているときは、集注していることさえわからなくなります。
工夫していることも忘れるくらい集注すれば、無心の世界に入ることができるようになるチャンスです。
そうすることによって、自分の力で生きているのではなく、何か大きな力によって、生かされているのだと知ることができるのではないでしょうか。

11/12/2025

風に追い風と向かい風があるように、幸不幸禍福はいわゆる巡り合わせというものです。しかし、世の中には、自分が得たところの福を他人に分け与えるものと、福を得ながら貪欲と吝(けち)の癖(くせ)のために少しも他人に分け与えることをしない狭小で卑しいものとがいます。福を他人に分け与えるものは、他人もまた福を分け与えようとするので、間接に福運に接する機会が多くなりますが、福を他人に分けることをしないで自分一人で享受しようとするものは餓鬼道(がきどう)に落ちるといいます。
餓鬼というのは、むかし自分だけが美食を食べて妻子に与えず、あるいは夫に与えなかったものが来世でその報いを受け、食物を求めても一切得られず、墓場に行きしかばねを食べるといいます。食べると胸や腹がつかえて吐き出したくなり、吐き出したくなっても吐くことができずに苦しむのです。
あるいは水に渇き、あわてさわいで水を求めても得られず、川のほとりに走っていって、もし川を渡る人があればその足からしずくが落ちるのを取ってようやく喉をうるおし命をつなぐのです。もし餓鬼が自分で水を飲もうとすると、水を守る鬼たちに鉄の杖で執拗に打たれます。これは『往生要集』という平安時代に書かれた書物に表された餓鬼の姿です。
輪廻転生などという話は信じられないという人は多いと思います。そんな人にも、餓鬼道の話は、欲深く執着し、欲望を追求することによっていろいろの苦しみを受けることも知らない私たちを戒(いまし)めるための方便だと考えてみてはいかがでしょうか。
多くの縁に支えられて生きられ、生かされた結果、現在の自分があります。この事実がわかると、私たちも何らかの方法で、他に奉仕したいという願いが起きます。
他人に福を分ければ、その人もまた他人に福を分けたくなります。福をもらった人は、たとえ福を与えることができないまでも、そのよろこびをだれかに伝えます。こうして幸福は継承されていきます。
さらに他人のする善行をわがことのように心の底から喜ぶことができたらそれはまた大きな功徳になります。善を行う人とともども喜ぶことが自分自身の生長につながっていきます。
物的には不足でも、心的には満足するというようなことは他の動物にはほとんど見られないことで、人間にのみ見られることです。福を分けると物質的には自分の数量が少なくなりますが、心的にはどれだけ多くの人に分けても、その功徳は少しも減りません。福をもらった人のそのよろこびや感謝の気持ちはリレーのように次から次へと伝わって、私たちの周囲にひろがっていくことでしょう。
自分にできるところから、身近な一人に福を分けるところから善行を積んでいきましょう。

21/11/2025

人生には知性では理解できないことがたくさんあります。そうであってもものごとを深く認識する学習が必要ないとは思いません。論理的に理解できないことでも情緒的にこころで感じとる必要のある良い教えはあるからです。
では、良い教えを身につけるにはどのような方法があるのでしょうか。
お釈迦さまは、三十五歳の時に悟りを開き、八十歳で亡くなるまで四十五年間、誰彼の区別なく深い愛情を注いで最後まで自分の思想を人に伝えることを止めませんでした。お釈迦さまは偉大な教育者でもあったといえます。
法華経は、お釈迦さまがこの世に出現した理由を、衆生に仏知見を、開き、示し、悟らせ、入らしめる「開・示・悟・入」にあるとします。仏知見とは、お釈迦さまが得た悟りのことです。
浅学を省みずこの「開・示・悟・入」の四つについて私の解釈を述べると次のようになります。
「開」は、疑念や偏見が取り除かれることをいいます。この障害が取り除かれると、すべてがありのままに見え、花が自ら開くように心が自ら開きます。
「示」は、すべての存在が普遍の真理を示していることをいいます。普遍の真理が理解できると同時に、すべての存在の「個別性」が深く理解できるようになります。たとえば、花が散るという個別の現象は諸行無常という普遍の真理を示しているように、あらゆる現象は単なる現象ではなく、普遍の真理を示していると観るのです。
「個別性」を重視しすぎると、「普遍性」を見失うというリスクを背負わざるを得なくなり、反対に、「普遍性」を強調しすぎると、「個別性」が消え去ってしまいます。「個別性」と「普遍性」の両者の対立を超えて「個別性」の奥に「普遍性」を洞察することができるようになると行動が変わります。
「悟」は、仏知見のことです。仏知見を得ると、何ものにも一切とらわれなくなります。何ものにも一切とらわれなくなると、見るのではなく、「見えてくる」ようになり、聞くのではなく、「聞こえてくる」ようになります。仏知見を得ると、日々の生活習慣が変わります。
「入」は、論理を超えて、自と他、是と非、主と客、心と身、それぞれの現象が独立していながら、しかも相互に浸透し、融和することを意味します。いわば自と他とが相互乗り入れするはたらきといえるでしょう。ひとたび自と他とが融合すると、運命がしだいに変わっていきます。
法華経の教えは、合理的な考え方に馴れすぎた私たちがものごとを深く認識するうえで、大切な教えであり、素直に受け容れやすいものだと思います。

07/11/2025

心が向かうべきところにのみ向かうことができなくて、余事に移っていくのを、俗に気が散るといいますが、そういう心の状態では何事に向かっても十分にうまく仕事ができません。
明治の文豪幸田露伴は、気が散る癖の根源を考えると、一時に二つ以上のことを考えたり、行ったりすることをたびたび敢えてすることによってそれが癖になってしまう、といっています。食事をしながら新聞を読むということだったり、歩きながらスマホを見るということなどは、誰でもすることですが、実は良くないことなのです。
たとえば職場で何か人に自尊心を傷つけられるようなことがあって、そのために心がそのことをかたときも離れることができなくなっているのに、食事をしたりして、心が食べることにイッパイになったりすることができるでしょうか。一方には食事のことを心に懸けているが、一方には職場であったことに気が散っています。瞬間瞬間に気が彼方へ行ったり、此方へ来たりします。すべてこういうふうに散乱する気を除くことができなくなっているのが私たち凡人の常態でしょう。
何でも、なすべきをなし、なすべからざるをなさぬ、思うべきを思い、思うべからざるを思わぬと決意決行するのは何と難しいことでしょうか。
今自分は何を真っ先にするのが本当かということを見定め、それ以外のことは、一時思い切って捨てるということがあらゆる事柄に取り組む上で一番の秘訣なのでしょう。しかし、口でいえば何でもないことですが、実際のところそれがチャンとできるようになるまでは修行がいることです。たとえば朝起きる、衣服を着る、夜具を畳む、室内を掃除するというように、ひとつひとつを拙くとも心静かに、それら対するものがすべて明らかに心に映るように、全力をもって行うことができれば「鏡浄ければ影おのずから鮮やかなる」の道理で、やがて気が散らずに対することができるようになるわけです。

住所

福岡県行橋市行事5丁目5/3
Yukuhashi-shi, Fukuoka

ウェブサイト

アラート

健康づくりがニュースとプロモを投稿した時に最初に知って当社にメールを送信する最初の人になりましょう。あなたのメールアドレスはその他の目的には使用されず、いつでもサブスクリプションを解除することができます。

その診療所に問い合わせをする

健康づくりにメッセージを送信:

共有する

カテゴリー