健康づくり

健康づくり 健康を守り育てるためには、
(1)正しい栄養
(2)適度な運動
(3)十分? 生涯にわたって動くこころとからだをつくり、守るための支援をします。

24/09/2025

室町時代、能楽を大成させた世阿弥は、『風姿花伝』」や『花鏡』などの著書を遺しています。その中で芸道はどうあるべきかということについて、
「極め極めては、諸道悉(ことごと)く、寿福増長ならん。道のための嗜(たしな)みには、寿福増長あるべし。」と、その効用を説いています。そのうえで、「寿福のための嗜みには、道まさに廃るべし。道廃らば、寿福おのずから滅すべし。」
と、語っています。
この意味するところは、寿福すなわち幸福はあくまでも芸道の結果としての効用であって、決して幸福を目的として芸道を行ってはならないということです。名声など世俗的な幸福を求めてこれを行えば、芸道のもつ本来の純粋性が失われてしまいます。そこには最初から見返りを期待している我欲があり、そのような不純な動機で行ったのではその本質を汚すことになるばかりか、決してその芸道が発展することはないし、幸福も消滅すると説いているのです。
目的達成の満足は、芸道それ自体のすばらしさを享受することとは全く別です。
あらゆるものが目的達成のための手段と見なされていく現代社会では、目的というものをもっていない行為は価値がないものと見なされ排除されてしまう傾向があります。たとえば、アルコール飲料やタバコなどの嗜好品は健康を損なうおそれがあるという理由で強く排除されてしまいます。
芸能などの活動は、何かのための手段ではなく、純粋にその活動それ自体のためにする活動でなければ、本当に歓びを享受することができません。それは目的の遂行という動機とは全く次元が異なるものです。
ミュージカルなど現代の芸能は明治時代以降欧米のそれを模倣して、わが国に移入されてきたものがほとんどです。しかし、そこに日本伝統の息吹を吹き込まなければ本当に私たちの文化として日本の風土に根づいたことにはならないのではないでしょうか。
海外から日本文化に関心が集まる今、もう一度日本の伝統文化とは何か、問い直してみたいものです。

11/09/2025

1996年イタリアの研究者が猿の脳を調べているとき、たまたまある神経細胞群が活動することを発見しました。その神経細胞群は目で見た他者の行動に対して共感する機能をもっていたのです。このような特性をもつ神経細胞はミラーニューロン(鏡の神経細胞)と名づけられました。ミラーニューロンは人間にもあります。誰かが何かからだを動かすと、その動作を見ている自分の脳内でもその同じ動作に関連する神経細胞が活性化するということです。
たとえば他者の動作を眺めているだけで、できなかったその動作が自分でもできるようになるということがあります。それはミラーニューロンの働きで相手のからだの内側で起きていることが自分のからだの一部であるかのように感じられるようになるからなのです。
ミラーニューロンの働きは、トップアスリートが神がかり的なプレーをするときにも発揮されていると考えられます。トップアスリートは頭でじっくりと考えて判断して動くのではありません。筋力やスピードとかではなく、高い身体的コミュニケーションの力で方向や距離や相手選手の動きなど全部からだに取り込んで反応しているのでしょう。
どうして私たちがそういう能力を獲得したかというと、何万年も前に人類の祖先たちが、生き延びるために、全員がひとつのからだのように集団で行動できる能力を発達させていったからではないかと思います。
ミラーニューロンは、もしかしたら他者の行動に限らず、知覚するものをすべて転写していると考えることはできないでしょうか。他者のからだの内側で起きていることが自分のからだの一部であるかのように感じられるのであれば、もう一足進めればどんな人とでも無意識レベルのコミュニケーションが成立して、心の中の情動に共感することができるようになるかもしれません。
個人のからだの境界を越えて、他者と身体感覚を共有していく技術の有効性が、そのうち科学的に検証されることを期待しましょう。

28/08/2025

能を大成した世阿弥は650年前、室町時代前期の人です。
今は能といいますが、当時は申楽(さるがく)といいました。猿楽とけものへんの猿と表記していることが多いようですが、干支の申です。神楽が能のルーツなのでつくりをとって干支の申です。
世阿弥は「離見の見」という言葉を遺しています。世阿弥はこれを説明して、
舞に目前心後と云う事あり。目を前に見て、心をうしろにおけとなり。
と、いいます。
観客が見るところの演戯者の姿は、演戯者自身にとっての離見です。演戯者の肉眼で見るところは離見の見ではなく、我見です。離見の見で見るところは、観客と同じ心で見るところです。そのとき演戯者は自分自身の姿を客観的に捉えています。自分の姿を客観的に捉えるということは観客の見ている自分の左右前後を見るということです。ところが、前と左右の姿までは見ても、後姿をいまだ知らないということがあり、後姿を覚知しなければ、自分の姿の凡俗なところに気づけるはずもありません。
肉眼で見えないところを覚知して、左右前後を分明に見なさい、と世阿弥はいいます。離見の見を体得して、視覚の及ばないところまで覚知してこそ幽玄の舞が成就するということです。これが心をうしろにおくということではないでしょうか。
また、世阿弥は、離見の見を説明するところで、「擔板感(たんばんかん)」という言葉を記しています。これは『碧巌録』にある「擔板漢」のことで、板をかつぐ男と解されています。一方的な見方しかしない人間を指して禅林で批判的に用いられるものです。
演戯者が自分の左右前後を離見の見で見れば、見ている観客には演戯者のからだが自分のからだの一部であるかのように感じられるわけです。
トップアスリートと呼ばれるアスリートが神がかり的なすばらしいプレーをして観客に感動をもたらすのは、このような能力が活きているのではないでしょうか。
メジャーリーグのイチローが、背走していって振り返ってボールをキャッチできたというのは、たぶん空中から自分のからだを俯瞰的に見下ろすということができたからだと思います。
そのとき選手の身体感覚と観客の身体感覚とが瞬間的にも必然的にもぴたりと一致するのではないかと思います。

14/08/2025

人間が他の動物と違うのは、あらゆるものを生み出す創造力をもっているからでしょう。この優れた創造力の源泉はどこにあるのでしょうか。
仏教経典『華厳経』に、「存在するものは、すべて心の表れである」という言葉があります。
たとえば画家がさまざまな色を使い分けて絵を画くように、心を離れて絵は存在しません。心から思考が生まれ、その思考から組織化する力が生まれ、創造へと導く、その結果一枚の絵が出来上がります。組織化する力が具わっていなければ、何かを創り出すことはできません。ただこの組織化する力は、眉毛のようにあまりにも近すぎるため意識できないだけです。
このように生物は心、すなわち知性を生まれながらにしてもっているのです。
蜂が花粉を集め、蜜をつくるのも、アサギマダラが海を渡るのも、実は彼らを導いているのは知性なのです。
人間のからだについても同じことが言えます。からだの内部環境を一定に保つ複雑な仕組みもすべて組織化する力が自らを表現しているのです。知性は脳の中だけにあるのではありません。私たちのからだのあらゆる細胞の中で活動しています。それは初心に帰って身体の活動をありのままに見ればわかります。たとえば、握り拳をつくろうとすれば、自動的に手が反応します。しかし、そんな簡単な動作でも、そのメカニズムについて説明しようとすれば、神経伝達物質や酵素や神経細胞や筋線維の働きといった生理学の知識を動員してえんえんと説明しなければなりません。
生命のあらゆる活動には組織化する力が内在しているのです。創造力の源泉は私たちの内にあるのであって、他のどこでもありません。私たちの内にある創造力は組織化する力それ自身なのです。

07/08/2025

不安や悩みを抱えたとき、どのように向き合えばいいのでしょうか。
予期せぬことが自分の身に降りかかったら、悲しいし、つらいし、取り乱すのは当たり前のことです。不安を無理に抑えるのではなく、不安を前に進んでいく糧にしましょう。
その方法はとてもシンプルで、自分の中のネガティブな感情に気づくだけです。とはいっても、実際に自分の中のネガティブな感情を自覚するのは難しいと思います。
私たちのからだには自然治癒力が具わっていますが、同じように心にも癒しの力が宿っています。癒しの力は常に私たちの中で働いていることを信じましょう。自分の心のネガティブな感情を受け容れることができた瞬間に、癒しの力は働き始めます。
このことは、蓮の花と泥にたとえられます。蓮の花は泥がなければ美しく咲くことができません。自分の中のネガティブな感情はすなわち泥です。泥を排除する必要はありません。これをどう受け容れるかで心は変化するでしょう。
心が不安になったときには、からだを動かしてみることも大切です。負の感情はからだを動かさないと、断ち切ることが難しいのです。外へ散歩に出かけたり、家の中では、部屋の端から端へと移動するだけでもいいのです。将来の不安や過去の後悔に意識をそらされることなく、現在のこの瞬間に、自分が踏み出す一歩一歩に注意を払うのです。ときどき意識が離れそうになったら、それに気づいて、そっと意識を歩みに戻してください。
物事には、必ず光と陰の面があると思います。どうしても陰の側面しか見えないものですが、自分のからだに対する気づきによって、自分の心のネガティブな感情を受け容れることができれば、光の側面を見つけることができるようになります。たとえば、支えてくれる友人や家族に感謝の気持ちが生まれたり、今まで見過ごしていた自然の美しさを感じたり、肯定的にとらえることです。

24/07/2025

「丹田呼吸法」といわれる呼吸法があります。
丹田とは、お臍(へそ)から指3本分下の位置、もう少し詳しく言うと、お臍と恥骨を結ぶ線の中点から、腰椎5番と仙骨の接合部に引いた線の中心点とされています。丹田は呼吸における重要ポイントです。丹田に力がこもると、自然に上半身の力みがとれて、心身が安定します。
呼吸を調えるということは、剣、禅など、あらゆる芸道において重要です。その芸道の要領をのみこむことを「呼吸を知る」という言葉もあるくらいです。
呼吸は自律神経の支配下にあり、無意識的におこなわれますが、その一方で、自分の意志でコントロールすることもできます。呼吸は、からだと心をつなぐ「懸け橋」なのです。
人間の普通の呼吸回数は一分間におよそ十六回ですが、静坐して、いわゆる丹田呼吸を行うと、熟練者では一分間に二、三回ぐらいになります。
丹田に力がこめられ、腹圧が加えられると、第一に肝臓や脾臓に貯留されている血液が駆出され、全血管に血液を送り込む。その場合、脳中枢に酸素の豊富な新鮮な血液を送る結果、呼吸中枢に作用して呼吸を鎮静化させます。
第二は、腹圧を媒介として、自律神経が刺激されます。自律神経には交感神経系と副交感神経系があり、緊張と弛緩のバランスをとるように調整しています。
呼吸筋である横隔膜がストレッチされると、横隔膜内のセンサーから脳幹の呼吸中枢にインパルスが送られます。呼吸中枢は交感神経系の興奮を適度に抑制して、副交感神経系を亢進させ、精神的な安定と心地よさをもたらします。
また、呼吸は姿勢と密接に関連しています。「骨盤を立てる」といい、背筋をまっすぐにのばし、骨盤を前にわずかに傾けることで丹田に力を入れることが容易になります。
丹田呼吸は、息を細く、長く、ムラなく吐き続けるのがコツになります。丹田呼吸のもうひとつのコツは、呼吸と動きをどれだけ連動させることができるかということです。動作と呼吸が合っていると、心地よい快感が生まれます。テンポのいい動きは、必ず呼吸と連動しているものなのです。呼吸と動きを連動させることは高い集中力を持続させる修練にもなります。

11/07/2025

日常生活において、正しく話すことはすべての人にとって非常に大切なことです。
一度口から出した言葉を引っ込めることはできません。その言葉を聞いた人に与えた悪い影響は取り返しがつきません。それゆえに、正しく話す技術がとても重要なのです。
正しい言葉の基盤は、正しい思考にあります。したがって、正しく話す技術は、正しく考える技術を含みます。正しい思考とは、創造的で、建設的なものです。どのようにしたら、創造的で、建設的な思考だけを心に抱くようにできるのでしょうか。
いつも浮かんでくるまとまりのない思考がなくなったとき、大自然の摂理に調和する思考だけが心を満たすようになります。したがって、無益な思考が生じないように心を養うことが必要です。心が澄んでいれば、明晰な思考が生まれ、それが明確な言葉となります。
正しく話す技術とは、ありのままに考え話していながら、出てくる言葉が気持ちよく、柔和で、正しい性質のものになる技術です。
言葉遣いをその場の雰囲気に合ったように話すことも、また相手の役に立つように話すことも正しく話す技術の一部分です。その思いが周囲に喜ばれず歓迎されないものであれば、話す目的は成就しないでしょう。その表現が聞く人に不快感を与えないように、優しい言葉で話しましょう。何かあることについて批判的なことを言わなければならないときでさえ、相手が受け容れやすい言葉で話すべきです。
基本原則は真実を話すことですが、同時に真実を語る言葉であっても、それがだれかを傷つけるものであってはならないことは言うまでもありません。
話しすぎたり、話し足りなかったりしても、話す人と聞く人の両方をいらいらさせます。相手が気持ちよく聞ける話し方はこまやかな思いやりから生まれます。思いやりは幸福な心に自然に具わっている性質です。
話す人がその話し方を整えようとすると、かえってぎこちなくなり、相手の耳に心地よく響きません。正しく話す技術の要点は、話すことが常に喜びであるように気取らずありのままに話すことです。

25/06/2025

私は不思議でたまらない、
黒い雲からふる雨が、
銀にひかっていることが。

私は不思議でたまらない、
青い桑の葉たべている、
蚕が白くなることが。

私は不思議でたまらない、
たれもいじらぬ夕顔が、
ひとりでぱらりと開くのが。

私は不思議でたまらない、
誰にきいても笑ってて、
あたりまえだ、ということが。

金子みすずの『不思議』という題の詩です。
詩人の目にはこの世界は不思議なことだらけです。人間の考えが及ばないものを見て不思議に思うところから詩が生まれるのだと思います。ところが、私たち凡人は、この不思議な世界も一向に不思議だと思わなくなっています。花を見ても、星を見ても歓声をあげるということはなく、森羅万象もあたりまえのこととなっています。まるで感動する心をどこかに置き忘れてしまっているかのようです。生まれて初めて見聞することはどんな些細なことであっても鮮烈な印象と感動を伴って覚知されるでしょう。しかし、私たちは、何を見ようと、あたりまえのことだと自分も思い、周囲の人も言います。なぜ私たちは驚かなくなっているのでしょう。
驚かなくなっているのは私たちの心が習慣の力に支配されているからだと思います。毎日太陽を見る。毎夜星を見る。そのうち傍観者の態度でそれを見るようになります。すると実相をありのままに見ることができなくなります。
思えば、芸術も、科学も、宗教も、みんな不思議に思う心から出発したといっても言い過ぎではないでしょう。宇宙や生命そのものへの畏敬の心こそ、幸福の道ではないかという気がします。

19/06/2025

玄米のご飯や具たくさんの味噌汁など日本の伝統的な食事は細胞を元気にして、健康なからだをつくります。ところが、最近は食習慣の悪化によって肥満の若者が増加しています。その原因として糖質の大量摂取があります。肥満の解消のためにも、血糖が上昇するのを防ぐためにも、食生活において糖質を減らすのがいいと思います。しかし、糖質を制限するとエネルギー不足に陥ることが懸念されます。とりわけ大量のエネルギーを必要とする脳の神経細胞のエネルギー不足は気がかりです。脳の機能を最大限に活かしたいと望まない人はいないでしょうから。
脳のエネルギー源は通常ブドウ糖です。通常と断るのには理由があります。ヒトでは、長時間糖質の制限を続けると脳はケトン体を利用するようになります。「ケトン体」という言葉は聞いたことがない人がほとんどかもしれません。
ケトン体とは、脂肪酸の代謝産物で、β-ヒドロキシ酪酸、アセト酢酸、アセトンの総称です。
およそ700万年前に現れたホモサピエンスは、絶えず飢餓状態にあったはずで、これに適応してケトン体をエネルギー源として利用していたと考えられています。栄養素は脂質とタンパク質が主で糖質はわずかだったことでしょう。現代人は糖質を主なエネルギー源としていますが、それは農耕が始まった一万年前より後のことです。
「脳の栄養素はブドウ糖だけである」と固く信じている人は少なくないと思いますが、それは決定的な間違いです。脳はブドウ糖とケトン体の二種類をエネルギー源として用いることができます。
ケトン体は、脳の神経細胞と神経細胞の間にあるシナプスの再生を促進し、認知機能を改善するので、アルツハイマーの予防に効果があります。
ケトン体は、脂肪を材料にして肝臓で合成されます。そもそも体内でつくられるので副作用がありません。
ただし、ケトン体の濃度が高くなりすぎると血液が酸性に傾くことがあり、これを「ケトアシドーシス」といいます。重篤な糖尿病の症状として記憶している人がいるかもしれません。しかし、インスリンがケトン体の合成を抑制するので、インスリンが正常レベルである限りはケトアシドーシスになることはないと言えます。
さて、食べたものが消化管の中で分解され、消化管から吸収されて血液中に入ります。しかし、それらがそのまま脳の中に入るわけではありません。脳の毛細血管には、脳血液関門というしくみがあって脳内の神経伝達物質や栄養物質などの濃度を一定に維持するため、脳内への脂肪酸などの通過を許さないのです。ほとんどの有機化合物は脳血液関門を通過できませんが、ケトン体は脳血液関門を通過できるのです。
脳以外の組織では脂肪酸がエネルギー源として利用されることも多いのですが、脳では脂肪酸が用いられずケトン体が用いられるのです。
また、ケトン体は、脳以外の組織でも健康を維持するさまざまな効果があります。

13/06/2025

脳に障害のある高齢者がふえています。2022年の調査によると、65歳以上の認知症または軽度認知障害(MCI)の高齢者は1000万人を超え、その有病率は約28%になっています。
どんなことが認知症の予防に役立つでしょうか。意思決定、問題解決、情報の評価など、創造的な思考が認知機能の低下を抑えることが知られています。
ただし、課題が簡単すぎると、脳に負荷がかからないので脳を活性化させることができません。脳に負荷を与えないと脳は活動を高めてくれないのです。一方、難しすぎると、あきらめてしまい、脳の活動が低下してしまいます。できないけれど、頑張ってできるようになる、ちょっと面倒で、ストレスですが、そういう頭の使い方が脳を鍛える基本になります。楽じゃない、でも何とかこなせる、それぐらいが脳を鍛えるのにちょうどいいのです。
次に認知症の予防に効果が期待できそうなのが食習慣の改善です。穀物、緑黄色野菜、果物、ナッツをバランスよくとること、ドコサヘキサエン酸(DHA)、エイコサペンタエン酸(EPA)、アラキドン酸などの「オメガ3脂肪酸」を多く含むイワシ、サバ、サンマなどの青魚を多くとることが推奨されます。
また、認知症の予防は、ウォーキングなどの運動を習慣化することができるかどうかが鍵になっています。ネズミでは、1960年代から運動が脳にいいらしいということは報告されていましたが、2011年には、ヒトでも運動によって、記憶に関係する海馬の容積が大きくなったり、前頭葉で新しい神経細胞が増えたりすることも明らかになりました。また、運動によって、BDNFという神経細胞を成長させる物質が増えることもわかってきました。
一昔前は、運動は、脳の活動を阻害するかのように思い込んでいた人が少なからずいたかもしれませんが、今では、運動が脳を鍛える最善の方法だというのはほぼ常識となっています。

04/06/2025

運動が健康にいいということは皆さんご存知だと思いますが、運動がなぜ健康にいいのか疑問に思ったことはありませんか。
カラダを動かした後はお腹がへることは誰でも経験的に知っています。カラダを動かすとなぜお腹がへるかというと、それはエネルギーを消費するからです。では、エネルギーを取り入れるのではなく、エネルギーを消費する運動がなぜ健康にいいのでしょうか。
カラダは繰り返しエネルギーを消費することによって自らエネルギー供給システムを生命維持に適したシステムに強化していきます。つまり、エネルギーを消費するプロセスがエネルギーを供給するシステムを自己再生産しているからなのです。
カラダの中に備蓄しているエネルギーから大量のエネルギーを利用できるようにするためにはエネルギー供給システムを効率化する必要がありますが、エネルギーを消費するプロセスそのものがそれを行っているというわけです。
このような変化は「セルフオーガナイジング」といい、「自己組織化」と訳されます。これこそが生命が本来的にもっている原理にちがいありません。
たとえば、幼虫がサナギになり蝶に変わるとき、青虫はサナギの中で一度どろどろに溶けてはじめて蝶になるように自ら構造を創りだします。そして、もう元の青虫には戻れないほどに変わってしまいます。
機械のようなある硬直化したシステムがプロセスを決定し、それを補正していくと考えるのではなく、逆にプロセスこそが構造の進化を導き出すと見る、そういう世界観です。
生物のカラダを構成している分子は、すべて分解され、食物として取り入れた分子と置き換えられています。生命というシステムは常に分解と合成を繰り返しゆらぎながら、動的な平衡状態を保っています。ゆらぎがなければ、内部環境の「恒常性」を健全に維持できないほどに、ゆらぎが生命の維持に不可欠のものとして運命づけられています。
熱力学的なゆらぎが間断なく起こり続け、ある臨界点を超えると、どのような構造も新しいシステムへと移行していきます。新しい秩序はゆらぎから生まれるのです。

22/05/2025

からだというのは、意識されないときが一番よく働いています。うまく機能しなくなってはじめてその存在が意識されます。たとえば、きちんと働いている胃は意識されません。そう考えれば、からだについていろいろ思いをめぐらすこと自体が人を不安にしているといえるかもしれません。皆さんは、自分のからだについてどんなふうに感じていますか。
他人への「思いやり」は、他人に何かをしてもらうという経験の中で育まれます。この経験を小さいころに十分しておかないと、私たちは他人への「思いやり」を欠くことになります。他人の感覚への思いは想像力を働かせないとなかなか共有できないように、目の前にないものや出来事を想像することができないと、いのちというものに関しても理解が進まないのではないかと思います。
たとえば、むかしの人はどんな生活をしていたのか、災害に襲われている外国の市民はどんなふうに感じているのかなど、目の前にないそういう出来事を想像することがだんだん少なくなってきているような気がします。それらを思い描くには、不在のものへの感受性が必要です。有る感覚ではなく無い感覚に注意を向けることが大切です。
中国の詩人蘇軾(そしょく)の詩に、

橫より看れば嶺を成し、側よりすれば峰を成す
 遠近高低おのおの同じからず
 廬山の真面目を識らず
 只身の此の中に在るに縁(よ)る

があります。現代語に訳すと、
側面より看れば連なる山々を成し、他の側面より看れば切り立つ峰を成す。見る位置によって、それぞれ違った姿となる。廬山の真の姿がわからないのは、自分が山中にいるからなのだ。
外から眺めるときは視点によってさまざまに変化する山の姿も、「此の中に在る」ときはその本来の姿は知覚できないという道理でしょう。
私たちは、自分のからだに関して理解しているつもりでも、ただ観念のレベルで理解しているに過ぎないのかもしれません。常識的な理解について「本当にそうなのか?」と疑問をもつことが重要なわけです。
不在のものへの感受性は、教えても誰にも理解されないでしょう。頭ではなくてからだをもって感じるものだからです。

住所

福岡県行橋市行事5丁目5/3
Yukuhashi-shi, Fukuoka

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