
13/04/2025
■なるとある
このタイトルは何? ナルトがあるのか? とか思っちゃうかもしれませんね。“なる”ことと、“ある”ことについて書きたいと思います。
これは瞑想の極意の一つではないかと思っています。瞑想をしようとするとき、しているときに、何かしらのゴールを設定している人が多いように感じています。どうでしょうか?
瞑想をやったことがある人なら多分お分かりいただけると思います。僕はちょっと不思議なんですね。瞑想の完成系みたいなものを多くの人が心の中に持っているように思うのです。
もしかすると、このことが日本で瞑想がなかなか浸透しなかったり、マインドフルネスがよく誤解される原因なのかもしれないと思うのです。
よく出てくる感想には、「雑念」がたくさん出てきました。そして「無」になれませんでしたというのがありますね。
もちろん「雑念が出てくるとダメですよ」といった教示などしていませんし、「さぁ、皆さん無になりましょう」といった指示を出すわけありませんよね。
おそらくはなんの迷いもなく、心は安定していて集中している、澄んだア青空みたいな状態になることを目指して座っているのではないのかな? そんな想像をしちゃうのです。
でも、そんなことを瞑想中に目指すのは瞑想ではありません。
マインドフルネスだと「評価・判断」をすることなく、この一瞬一瞬に気づいているという状態であるようにお伝えはします。
その手段として、最初は「呼吸に気づいている」という状態の維持を行います。これはそう「ある」ということです。います、ここでの呼吸にただ気づいているという状態にあることです。
ここで大切なのは、マインドフルネスを通じて、「何ものかになろうとしてはいないか」ということです。どうでしょうか。
ただ、あるがままに観察している状態にあることを目指すのはOKです。しかし、それは自分が何者かになることではなくて、そういう状態にあるというだけなんですね。
この状態はとても気持ちのよいものです。何の責任も義務もないんです。
日常では、僕たちは大概いつだって何者かになろうとしているのです。
例えば、お金持ちになりたい、誰かの妻や夫になりたい、政治家になりたい、課長になりたい、社長になりたい、料理が上手になりたい、英語が喋れるようになりたい〜。
いつも「なりたい」という目標を追い続け、場合によっては追いたてられたりもしています。
もっと頑張らないといけない、努力が足りないなど、いくつもの義務や責務のようなものを背負っています。
「○○であらねばならない」という自分に縛られています。いつの間にか自分で自分の心を縛っているのです。
そんなことやってないという人はほとんどいないでしょう。ちょっと考えてみてください。いつだって私たちは「なりたい病」になっています。
誰もあなたのことを責めてなんかいないのに、あなたがあなた自身をいちばん責めたり、追い詰めたりしています。そんなことってありませんか。
マインドフルネス瞑想では、何者かになろうとはしません。ただあるがままを観察する状態であろうとはします。あなたはあなたのまんまでよいのです。何のデューティ(責務、職務、負うべきもの)もありません。フリーです。
ただ、あなたの周りで起きていること、自身に起きていることに気づいているという、それだけのことをしています。それが瞑想です。
何者かになろうとはしません。あるがままにあることなんですね。