あかつき堂鍼灸院

あかつき堂鍼灸院 市川市、中山法華経寺すぐそばにある鍼灸治療専門院です。

こんにちは。市川市、あかつき堂鍼灸院の清水です。つい最近「水は記憶を持ちウイルスさえ転写できる」という話をSNSで見かけました。それを見て私は、腐った食べ物からウジが生まれる考え方に似ているなぁと思いました。同時に大正生まれの祖母が信じてい...
05/09/2025

こんにちは。市川市、あかつき堂鍼灸院の清水です。

つい最近「水は記憶を持ちウイルスさえ転写できる」という話をSNSで見かけました。それを見て私は、腐った食べ物からウジが生まれる考え方に似ているなぁと思いました。同時に大正生まれの祖母が信じていたことも思い出しました。

ある程度の知識や手段がなければ、そう信じるのも無理はありません。

しかし今の時代であれば、ネットで少し調べれば、誤りだったことは瞬時に分かる。それでも(どんな話でも)無条件に信じる人が必ず一定数いるのは、なぜ私がそのSNS投稿が誤りだ!と思うのかを含めて不思議なことです。

それはたぶん私たちが古来生き残るために必要だったヒトの多様性なのかもしれない、とそんなことを思います。

1.ヒトは虚構を信じる力があるらしい

日々私たちは、あらゆる情報を信じたり疑ったりしていますが何を根拠としているのでしょうか?

世界的ベストセラー『サピエンス全史』にそのヒントが書かれています。著者である歴史学者ユヴァル・ノア・ハラリ氏は、私たちサピエンスが他の種と決定的に違う点は「虚構を信じる力」にあると述べています。

つまり神話・寓話・物語・宗教・法律・権威・国家・法人・通貨・ブランド・などの虚構を共有できることこそが、文明の発展を大きく支えてきたのです。

しかしながら「虚構を信じる」と言われても、あまりに生活に溶け込みすぎていて、ピンとこないかもしれません。

ここでいう「虚構」とは「嘘」や「作り話」という意味ではありません。物理的には存在しないけれど、人々が信じることで力を持つものを指しています。

例えばお金。あの紙切れに(今は紙ですらなくなりつつありますが)なぜ価値があると思うのでしょうか?それはお金には価値があると皆が信じているからに他なりません。

同じように、ドラマやアニメを見て感動するのはなぜか。

墓や社を建てるのはなぜか。

2.虚構を信じるとは?

しかし虚構によって統制が取れると、霊長類で限界数と言われる数百どころか、数万、さらにそれ以上までサピエンスは集団を作りまとまることができる。一方で私たちホモ・サピエンスと同時期にいたネアンデルタール人は虚構を操れなかったため集団行動に限界があり、サピエンスに滅ぼされたという説があります。

3.虚構のアップデート

だから「虚構を信じ共有する」ことが正しいとするならば、それは常に歴史を動かしてきたはず!

そんなふうに考えてみました。

例えば日本。縄文時代は狩猟採集の暮らしでしたが、弥生時代に入ると稲作によって定住が始まり、富の偏りが生まれ、豪族による統治が進む。そして卑弥呼が現れ、より大規模な共同体がまとまるようになる。

さらに『古事記』や『日本書紀』などの神話の編纂によって天皇は天照大神の子孫となり、徐々に国をまとめる基盤が固められていきやがて仏教や摂関政治がその権威と結びつく。

時代ごとに「何をどう信じるか」というパワーバランスが重要になる。つまり時代が進むと次第に「信じる対象」は次第に多様化し、もはや単純な虚構だけでは社会を統合できなくなってきた。

そして大戦後、民主主義や資本主義を信じる共同体へと大きく価値観を転換させた。

そう考えると、日本の歴史を動かしてきたものは、常に「虚構のアップデート」だったとは言えないでしょうか?

そして今も、信じる虚構の対象が変わっただけで、構造は何ら変わっていないのではないか?ネアンデルタール人には、そんなことはできなかったのので結果的に滅んだ、そう思うのです。現在においては、その虚構のあり方が個人レベルまで細分化しているように思えます。

端的にいえばSNS。

4.「いいね!」やフォロワー数

「いいね!」は、個人をある程度の信用度を示し、権威の指標となりあます。そしてこの「いいね!」も、もちろん虚構です。

では、鍼灸治療はどうでしょうか。鍼灸治療に使う鍼やお灸は確かに存在します。しかし鍼灸治療は、陰陽や太極、五行といった自然をシンボル化・抽象化し、その記号をあらゆる自然現象に当てはめていくものです。つまり「類推」ということを重視しています。

この類推によるシンボル化・抽象化は、今回の文脈でいえばもちろん虚構です。

5.陰陽五行という虚構

例えば、陰陽および木火土金水という要素を解いた陰陽五行について整理すると次のようになります。(チャットGPTによる)

• 木=肝:春に木がのびやかに成長する姿を、体の気の流れや「肝」の働きに重ねた。イライラや頭痛は「木の力が強すぎる」と表現される。

• 火=心:夏に火が燃え盛る様子を、拍動や熱を生む「心」に対応させた。動悸や不眠は「火が過剰」と説明される。

• 土=脾胃:大地が作物を育てるように、食べ物を受け入れて養分を作る「脾胃」に結びつけた。食欲不振や下痢は「土が弱っている」とされる。 

• 金=肺:金属の清らかさや硬さを、白く乾いた「肺」の働きにたとえた。咳や風邪の多さは「金が不足している」と表す。

• 水=腎:冬に水がたまり込む姿を、生命の根や水分代謝を担う「腎」にあてはめた。むくみや冷えは「水が過剰」とされる。

もちろん体の中に木や火があるわけではありません。繰り返しますがこれはあくまで例えであり、自然をモデルにした類推に過ぎない。

しかし、この虚構を通すことで、人々は自分の体と自然を重ね合わせて理解し、施術者と患者の間に虚構という物語の共有が生まれるのではないでしょうか。

6.再現性という虚構

一方で科学(現代医学)は「同じ条件下では同じ結果にならなければならない」という再現性という物語を採用しています。これは現代で最も強力な虚構の一つです。

そう考えると、やはり私たちは虚構を信じることで繁栄してきたのだと思います。私自身、鍼灸治療をアナロジーとして扱い、その虚構を媒介に仕事をしています。

であれば「水が記憶を持つ」という話も、虚構として機能してしまいます。もちろん再現性という物語を重視する科学では、それは誤りです。ですが、それでもなお「信じたい」と思う人がいて、その信念が共有されれば物語として一定の力を持つのです。

虚構は、あくまで虚構にすぎません。だからこそ私は虚構に惹かれるのだと思います。

7.虚構に基づく鍼灸治療

鍼灸治療がアナロジーの物語ではなく、科学の土俵に乗って評価されるとき、再現性という基準においては限界が見えてしまいます。

症例は一つひとつ異なります。薬のように万人に一度に服用させて再現性を測るのには全く向いていません。一対一で行われる鍼灸治療は「同じ条件下で同じ結果」を保証することが難しいからです。

しかし、だからといって鍼灸が「ただの思い込み」だとは言い切れません。患者と施術者が五行や陰陽といった虚構を共有することで、体の変化に意味づけを与え、行動を変え、回復を促していくからです。虚構は、身体の内側に物語を立ち上げる仕組みとして働くのです。

科学の虚構は「再現性」を支柱として社会を動かしてきました。鍼灸は「物語の共有」を支柱として人を支えてきたといえるのではないでしょうか。どちらも虚構であり、どちらも人間が信じることで初めて力を持つのです。

結局、私たちはいつの時代も、虚構を選び、虚構に生かされてきました。そして虚構によって滅んでいくのかもしれませんし、より虚構のアップデートによって発展していくのかもしれません。

知らんけど。

プレイステーション5用ソフト『デス・ストランディング2』をプレイしています。相変わらず、世界は荒廃して人と人は分断されています。でもその中で、誰かのために荷物を届けて、少しずつ「つながっていく」ゲームです。コロナ以降、私たちは人と会わないこ...
25/06/2025

プレイステーション5用ソフト『デス・ストランディング2』をプレイしています。

相変わらず、世界は荒廃して人と人は分断されています。でもその中で、誰かのために荷物を届けて、少しずつ「つながっていく」ゲームです。

コロナ以降、私たちは人と会わないことに慣れてしまいました。

仕事も勉強も遊びも、オンラインで完結するようになって。
私自身、一人でいるのが好きなので、正直その流れは居心地がよく感じられることもありました。

このゲームの中では、他の誰かに「いいね!」を送ったりもらったりできます。

それだけで、「誰かとつながったな」という気持ちになるのが不思議です。

実際のSNSと、とても似た感覚があります。

でも、ふと思うのです。本当の「つながり」って、なんだろう?と。

たとえば、偶然の出会いや、行ったことのない場所で見た景色。

あるいは、自分では気づいていなかったことを誰かに言われて、
少しだけ心が動くような、そんな瞬間。

最近、ある患者さんが、来院されるたびに私のことを褒めてくださいます。

自分では意識していなかったようなところを、丁寧に言葉にして伝えてくださる。

最初は少し戸惑いましたが、それがその方なりの「つながり方」なのかもしれないと思うようになりました。

ふれること、会うこと、話すこと。
それは、画面越しではできない、人と人のやりとりです。

鍼灸という仕事は、まさに「身体を通して、つながる」ことなのだと、あらためて感じています。

ゲームの中で味わうつながりも好きですが、やっぱり現実で、誰かとちゃんと会うって、すごいことですね。

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「わからない」ということからしか、生まれない信頼があると、私は思っている。たとえば私にとって「今の症状が、どこから来ているのか正確にはわからない。でも、こういう可能性がある」と思うというような会話は、とても勇気のいることだ。施術者としてはで...
20/05/2025

「わからない」ということからしか、生まれない信頼があると、私は思っている。

たとえば私にとって「今の症状が、どこから来ているのか正確にはわからない。でも、こういう可能性がある」と思うというような会話は、とても勇気のいることだ。

施術者としてはできるだけ的確に答えたいし、効果を出したいという気持ちが当然ある。けれどその場で断言できないとき、「わからない」と伝えることは、自分の不完全さを晒す怖さすらもある。

だからこそ「わからないけれど一緒に考えたい、この道筋かもしれない」と言えることには、誠実さが伴っていると思う。

誠実さがなければ、わからないから仕方ないと放り出してしまうこともできる。でもそれは、信頼にはつながらない。

ということはひょっとして誠実であるということは、答えを持っていることではなく「問い」を手放さないことではないか?などとも思う。

「まだわからない、でも、今できる最善を尽くしたい」その姿勢を持ち続けることで、患者さんとのあいだに対話が生まれるのではないか。だとしたらその問いを共有することが関係の出発点になるはずだ。

たとえば、足のしびれが取れないとき。症状のある部位だけを追っても変化が見えないとき。それでも、他の部位との関係を探ってみる。過去の病歴や生活のパターンを丁寧に聞き直してみる。

場合によっては、文献を調べ、別の視点から見直してみる。そうやって「まだ見えていないもの」を探す過程には、治す治らないという結果を超えた人間同士のやりとりがあると思う。

もちろん、どうしても変化が出せないこともある。無力さを痛感する場面もある。
けれどそのときに、「無力である自分」としてそこに留まるのか、「まだ可能性があるかもしれない施術者」として向き合い続けるのかその態度の違いは、患者さんに必ず伝わる。

信頼というのは、「全部うまくいく」ことではなく、「一緒に考え続けられるかどうか」によって育つものだと思う。

結果が出ないときでも、「この人は、ちゃんと考えてくれている」「本当に向き合おうとしてくれている」と感じてもらえるかどうか。それこそが、鍼灸という曖昧な営みの中で、いちばん確かな手応えなのかもしれない。

そしてその手応えは、いつか結果として現れることもあるし、結果にはならなくても、「ここに来てよかった」と思ってもらえる何かを残すこともある。

私は、そんな治療のかたちを信じていたい。

そんなことを考えるけど、所詮これは綺麗事である。

信頼だの誠実さだの、美しい言葉を並べることはできるからだ。だが実際には結果が出なければ患者は離れていく。そしてそれはいつでも起こり得るし、実際に起こることだ。

そして何より、施術者の側にだって「飽き」が訪れる。考えて、試してまた外れて、を繰り返すなかで、ふと「もういいか」と手放したくなる瞬間がある。毎回すべての症例に、100%の集中力と関心を注げるわけではない。自分のモチベーションや生活のコンディションだって当然毎日揺れ動いている。

それでも、考え続けなければならないと思う。
飽きたときこそ、問い直さなければならない。自分はなぜこの仕事をしているのか。どこまでが惰性で、どこからが信念なのか。

鍼灸という行為は、そもそも「結果」と「過程」が曖昧に入り混じっている。

科学の世界で重んじられる「再現性」は、もちろん重要だ。しかし、ヒトの身体は自然の一部であり、一定に保たれるべき実験条件そのものが、そもそも存在しない。

同じように見える腰痛でも、ある人は仕事のストレスで悪化し、ある人は天候に反応し、ある人は既往歴が関係している。表面的な症状が一致していても、背景も身体の層も、まったく違う。

つまりその意味でいえば「同じ症例」は存在しないと言っていい。

そこに「再現性」を求めることは、ある種の暴力ではないか。

自然を、ヒトを、ある型に押し込もうとすること。たしかに、科学は「何がどれくらい効いたか」を測るために不可欠な道具だ。だがそれが「効くかどうか」という問いのすべてを規定してしまうとき、本当に見なければならないものが、こぼれ落ちていく。これは僕ら鍼灸師が常日頃言語化せずとも感じていることのはずだ。

だから、鍼灸は科学的な指標だけでは測りきれない。変化の予兆や、患者の語る身体感覚、あるいは施術者自身の手の中に残る微細な感触、そうした曖昧な手がかりのなかからいま何が起きているのかを少しずつ読み取っていく作法なのだと思う。

もちろん、それは不安定で、曖昧で、時に当てにならない。それでも、その不安定さのなかに、現実の身体のダイナミズムがある。

効いた効かなかった、だけで世界を割り切ることに私は慎重でありたい。
たとえば、それが「今週は効かなかった、でも来週、効き始めるかもしれない」ようなものだとしたら?

私たちの仕事はその見えにくい時間の流れにも手をかけることではないかと思う。

科学と矛盾しないためではなく、科学でこぼれ落ちたものに触れるために、鍼灸があるのだとしたら。
飽きても、わからなくても、何も変わらなくても、それでも手を止めず考え続けること。その行動がもしかしたら鍼灸治療の本質であり「臨床」なのかもしれない。
#あかつき堂鍼灸院

一人に一台ドラえもん時代。生成AIが文章をまとめ、予定を整理し、必要な情報を数秒で見つけてくれる。まるで「1人に1台のドラえもん」が与えられたような時代がきたと感じる。さてこれからどうなるか?「ドラえもん」を例に考えてみる。のび太は宿題をご...
15/05/2025

一人に一台ドラえもん時代。

生成AIが文章をまとめ、予定を整理し、必要な情報を数秒で見つけてくれる。
まるで「1人に1台のドラえもん」が与えられたような時代がきたと感じる。

さてこれからどうなるか?「ドラえもん」を例に考えてみる。

のび太は宿題をごまかそうとして失敗する。
スネ夫は、自慢のために使い、
ジャイアンは力を誇示するために道具を手にするかもしれない。
一方で静香ちゃんは困っている人を助け、
出木杉くんは、自分の思考をもっと深めるためにそれを使うだろう。

つまり道具が同じでも、
それを持った人の「問い方」で、使い方も、行き先も変わってしまうのではないか?

教育の現場でも、鍼灸の臨床でも、
同じことが起きているように思う。

AIが自動で要約してくれる文章を、
そのまま「わかったこと」にするのか。

AIに入力すれば出てくる配穴を、
そのまま「効きそうなやり方」として使ってしまうのか。

それとも、
「なぜ今、この人にこの反応が出ているのか?」
「どうして昨日ではなく、今日この痛みなのか?」
と、
答えではなく、問いを起点に施術を組み立てようとするのか。

問うことはとても手間がかかる。
すぐに出てくる答えよりも、不確かで時間がかかる。でも、その手間こそが知識、、否、知性を育ててくれる。

AIは便利ですばらしい道具だ。
でもそのすばらしさは、「どこで使うか」より、「どこで使わないか」を見極める力にかかっていると感じる。

本当に大切なのは、
すぐに正解を出す力ではなく問いを手放さない力。

それを繰り返していく人のもとにしか、深い学びは訪れないはず。

つまり、

ドラえもんがいるからこそ、
のび太のままでいることもできるし、
出木杉になろうとすることもできる。

道具が与えられたこの時代に、
自分はどの登場人物でありたいか。
それが、静かに、でも確かに、未来を分けていく。

・・・

ここまでの文章は、「AIが一人ひとりのコンシェルジュになったら、どんな世界が訪れるのか?」という対話から生成AIが作成したものです。

そんな想像を膨らませたきっかけは、iPhone 16以降に搭載される「Apple Intelligence」の発表でした。

Apple IntelligenceについてAppleの公式サイトでは次のように記されています。

書いたり、自分を表現したり、タスクを簡単にこなすためのAIが、あなたのiPhone、iPad、Macに組み込まれます。あなたのパーソナルコンテクストを活用します。あなたのデータには、あなた以外の人はもちろん、Appleもアクセスできません。

文章を書くあらゆる場面で、最適な言葉を見つけられるようにする。それが、Apple Intelligenceが動かす新しい作文ツールです。高度な言語機能により、数秒で授業全体を要約したり、長いグループスレッドをダイジェストにしたり。大切なことに集中できるように、重要な通知を優先して表示することもできます。(Apple公式HPより)

とくに「授業全体を数秒で要約できる」という一文に、私はなぜか強く惹かれました。

スマートフォン(今のところの最先端のデバイスとして)を持つすべての人に、AIコンシェルジュが寄り添う時代がやってくる。
この技術を使って、学びを深く探究する人もいれば、必要最低限の情報だけを効率的に取り込む人もいるでしょう。

つまり、「どう学ぶか」という姿勢そのものが、これから大きく変わっていく。
そんなパラダイムシフトの兆しを感じずにはいられません。

そんな中、私は生成AIを使ってこんな使い方をしてみました。

昔この絵を描いたうちの子の受験情報収集の一環として学校説明会に行ったときのことです。

説明会で、先生方が学校紹介のために本校がどんな方針でどんな教育を売りにしているか?をとりあえずフリック入力でスマホのメモ欄にひたすら打つ(まあこれ自体代用できることなのでしょうが)そのあとに自分が感じたこと、考えたことを箇条書きでもいいのでひたすらメモる。

→そのメモをチャットGPTに投げて、「結局私の考えていることとこの学校がどのくらいマッチしてるか?そのエビデンスの強さを吟味して」と入力すればそのメモの要約や私の考えているであろうことをエビデンスを交えてずらずら書いてくれる。

元々いろんなことをチャットGPTで会話しているため私自身の意見や思考の、傾向はある程度インストールされているので、通常より一段上のその学校に関して「私が考えが及ばない範囲」まで知ることができてしまう。

これはメモをとっているだけではなかなか気づけない、私の深層まで言語化してくれる。それだけでも今までの「考える」という角度がまるで違う方向から示される今までにない感覚です。

今後どんな世界になっていくのか非常に楽しみです。

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これは何のための動き?──テコンドーと鍼灸に通じる“わからなさ”についてITFテコンドーを14年ほど続けていて、現在2段です。それなりに取り組んできました。そんな私が、型稽古をしていて毎回なんとなく感じていた疑問があります。 それは、、「こ...
26/04/2025

これは何のための動き?──テコンドーと鍼灸に通じる“わからなさ”について

ITFテコンドーを14年ほど続けていて、現在2段です。それなりに取り組んできました。そんな私が、型稽古をしていて毎回なんとなく感じていた疑問があります。 
それは、、

「この動きって、そもそも何のためなんだろう?」

ってことです。言葉にすると元も子もないんですが。

理屈はある。でも、いわゆる実践的な動きとは思えない。その最たるものがサインウェーブという独特の身体操作です。これは動作中に上下運動を加え、身体の重さを利用して打撃や蹴りに威力を乗せる技法です。「自然の動きを活かす」ために生まれた、テコンドーの思想的なコアとも言えるかもしれません。

ただ、現実にはこれを組手の中で明確に出すのはほぼ不可能です。理由は簡単、技を出すためのその予備動作の動きが非常にゆっくりだから。スピードが重視される試合では、そのサインウェーブは明確な隙になる。それでも型稽古では、すべての動作にこの動きが組み込まれています。
蹴りも、受けも、突きも全て。

これは一体、何なんだろう?と何年も何年もずっと疑問でした。

で、あるときひょっとしたらこういうことなの?と思い至りました。テコンドーの型は、単に技のカタログではなく、倫理・文化・歴史観を体で学ぶ装置(物語)なのではないかと。

「なぜ始まりの合図があり、終わりの礼があるのか」
「なぜ顔面への突きは2連続のストレートに制限されているのか」
「なぜ下段への攻撃が禁止なのか?」

それらはいわゆる実戦を想定したルールではなく、テコンドーという世界観を演じるための舞台装置なのだと考えたとき、ようやくああそういうことならいいか、と納得したのです。

その物語の中で、自分がどんな動きを選ぶか、自分が選びたい動きをちゃんと選びきれたかどうか。それが大事なんじゃないか。

世界選手権に出場した際、ホテルで同室だったある師範がこう言ってくれました。
「(昇段するして初めて習う)あの型の初手の両手をゆっくり広げるあの動きは、目の前の広大な土地を見渡す動きだと考えてみてください。」

それを聞いたとき、ハッとしました。あの動きは、どう見ても攻撃でも防御でもない。でも、型の中で意味を持たせようとすれば、そういう物語が必要なのだと気づいたのです。つまり、テコンドーの動きは、実戦なるものを想定した上でのフィクション。

そしてその上で、その「フィクションの中でどんな動きを選ぶかが問われている。」

鍼灸にも、どこか似た感覚があります。
私は鍼灸師として仕事をしていますが、
治療をしていて、明確な「因果」がわからないことがよくあります。たとえば、「肩が重い」と訴える人に対して、局所に対応するツボの反応が出ることもあれば、むしろ肩から離れた場所、

たとえば膝周りあたりに鍼をしたときに、スッと肩が軽くなることもある。これは経絡のつながりによる全体の調整と説明されることが多いですが、「なぜそこが効いたのか」については、身体が教えてくれる以外に方法がありません。

経絡とは、血管でも神経でもない流れ。でもその流れを手がかりに身体に触れていくと、たしかに反応がある。ただし、それが科学的に完全に証明できるかと言えば、いまのところ難しい。だから私は今のところ「効いた/効かない」だけでは語れない何かがあると思っています。

テコンドーの型にサインウェーブがあるように、鍼灸にも「なぜそこにするのか」が、すぐには説明できないことがあります。けれど、繰り返し向き合っていると、身体の中に“選ばれている動き”があることに気づく。それは「再現性」ではなく、「その人の今」という、一度きりの風景に近い。

そもそも、「効く」とは何か?

「良くなった」とは、どういうことか?テコンドーでも、鍼灸でも、結局は「正解」があるわけじゃない。それでも、あの上下運動を繰り返し、その経絡に、静かに鍼をする。それは、答えを出すためではなく、疑問を持ち続けるための動きなのかもしれない、そんなことを思います。


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日々、鍼灸治療をしていると、
鍼が肌に触れただけで、患者さんの体が変化していくのを感じることがあります。皮膚の張りがゆるみ、筋肉の緊張がとれ、呼吸が深くなり、患者の声や表情まで変わることがある。この変化は、東洋医学の文脈では「気」や「経絡」...
24/04/2025

日々、鍼灸治療をしていると、
鍼が肌に触れただけで、患者さんの体が変化していくのを感じることがあります。皮膚の張りがゆるみ、筋肉の緊張がとれ、呼吸が深くなり、患者の声や表情まで変わることがある。

この変化は、東洋医学の文脈では「気」や「経絡」といった言葉で語られます。
少なくとも、その枠組みのなかで鍼灸を行っている限りにおいては、それらは治療の背景にある前提として、機能しているように思えます。
もちろん、「気」や「経絡」は西洋医学的には確認できない概念です。それでも、身体が反応しているという経験は確かにある。少なくとも私はそう感じています。
 
ではその変化は「信じたから」起きたのでしょうか。
それとも、変化が起きたから「信じるに値する」と思えたのでしょうか。

つまり意味を信じたから効いたのか。効いたあとに、意味があとづけされたのか。そのどちらとも言い切れない、曖昧な位置に、私は鍼灸師として立っている気がします。
 
この問いは、鍼灸だけに限りません。
たとえば鉱石。よりそれっぽくいえばパワーストーン。
古代エジプトやメソポタミア、インドや中国など、
多くの文明で特定の鉱石に「癒し」「守護」「繁栄」などの意味が与えられてきました。ラピスラズリ、翡翠、アメジスト、ルビー。物質としての特性よりも、人の願いや恐れの投影対象として扱われてきた面が強い。
それらは、物理的に効くわけではない。

でも「信じるに足る」と思った人が一定数集まれば、何らかの変化が「起きたように感じられる場」が生まれるのかもしれません。
 
学生時代に試したことがあります。
ある種の筋力反応テストのような方法で、指で輪を作り、手にした鉱石との“相性”を見るというものでした。科学的な再現性は乏しく、信頼できる診断法とはされていません。それでも、ある特定の鉱石を手にしたとき、ほかと比べて指にしっかり力が入ったという感覚がありました。それが暗示だったのか、偶然だったのかはわかりません。でも「違った」と感じた経験は今も記憶に残っています。
 
そんなことを考えてみますと、人は、まだ意味が与えられていないものに意味を与え、あるいは、何かが起きたあとで意味を探しているのだと思えてくる。
この構造は、個人の身体にも、社会の仕組みにも、深く染み込んでいるのだと思います。
 
ユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』では、
私たちサピエンスの最大の特徴は「虚構を信じ、それを他者と共有する能力」だと述べられています。
国家、宗教、貨幣、法律、、
それ自体に物理的な実体はないが、多くの人が信じることで機能し、社会が成立している。

たとえばお金。

ただの紙、あるいは数字の記録に過ぎないそれに価値があるとみんなが信じていることを前提として私たちの経済の根底を支えています。
 
ハラリはこの能力の起源を、ネアンデルタール人との比較から読み解こうとします。ネアンデルタール人は、私たちサピエンスよりも脳が大きかったともされます。特に視覚や身体制御に関わる領域が発達しており、筋力も強く、寒冷地に適応した頑丈な体格を持っていました。火を使っていた痕跡も各地の遺跡から見つかっており、道具を使い、死者を埋葬する文化もあったとされます。

また、発声に必要な構造(舌骨)や 遺伝子も確認されており、言葉を発する能力そのものは持っていた可能性が高いと考えられています。しかし、抽象的な文法や象徴的表現を伴う言語、あるいは物語の共有という点で、サピエンスほどの痕跡は見られていないそうです。
 
ネアンデルタール人の社会規模は、およそ150人前後にとどまっていたとされます。これは「ダンバー数」と呼ばれ、人間が直接的な信頼関係を保てる人数の限界を示す目安です。それを超えて集団を維持するには、「村の守り神」のような共通の物語を信じる力、、
すなわち「虚構の共有ーが必要でした。

サピエンスはこの力を持っていたがゆえに、より大きな集団で協調し、やがてネアンデルタール人を駆逐(あるいは他の人類も)していったのではないか?とハラリは説きます。
 
この「虚構を信じる力」は、鉱石にも、鍼灸にも、簡易的な筋力テストのような方法にも、いくらかのかたちで働いているのかもしれません。
 
けれど、私は鍼灸について、ひとつの違いを感じています。鍼灸治療は、たしかに「東洋医学」という虚構の枠組みの中にあるものです。
それでも、意味や信念とは無関係に、実際に身体の変化が起きる瞬間がある。信じなくても、反応は起きることがある。意味づけされる前に、すでに身体の側で起きてしまっている。
 
信じることと、起きることのあいだ。
意味を与えることと、あとから意味が立ち上がることのあいだ。身体はいつも、その中間で何かを経験している、たぶんそれだけのことなのかもしれません。
そして、それ以上の説明が必要なときだけ、人は物語をつくるのだと思います。

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たとえば、肩こりがひどいということで来院されたとします。その方の声のトーンや、どこから話し始めるのか。言葉尻や話すリズムなどを、私はけっこう気にして伺っています。これは私自身が緊張しやすい性格ということもあって、相手が何を考えているのか?を...
23/04/2025

たとえば、肩こりがひどいということで来院されたとします。その方の声のトーンや、どこから話し始めるのか。言葉尻や話すリズムなどを、私はけっこう気にして伺っています。これは私自身が緊張しやすい性格ということもあって、相手が何を考えているのか?を無意識に探ってしまうクセのようなものなのですが、
意外とこの観察は仕事の中で役に立っています。

たとえば「仕事はそんなに忙しくない」と言いながら、呼吸が浅く、肩に力が入っている方がいます。
「力を抜いてください」と伝えてもなかなか抜けない。そんなケースはそれなりにあります。おそらく本当は無理をしているのに、ご本人が「無理しているつもりはない」と思っている。そのことが、身体の反応や声の抑揚といった「気配」として伝わってくるのです。

言葉の内容と身体の反応がなんとなく噛み合っていないように感じる。もちろん、これは私の思い込みかもしれません。でも、その微妙な違和感に、鍼灸で手を添える場所を見つける手がかりがあると感じています。

鍼灸では脈や皮膚の温度、筋肉の質感、凝り方など、
患者さんが言葉で語らなかった部分にも注意を向けます。言葉に出なかったことが、その人の症状と同じくらい重要なヒントになることがあるからです。

そんなことを考えていたときに、思い出す作品があります。たとえば私の大好きなアメリカドラマシリーズのNetflixで配信されている『ベター・コール・ソウル』。 主人公は弁護士。でもこれは、単なる法廷劇ではありません。登場人物の目線や沈黙、ためらい。一見、何も起きていないような場面に、その人の葛藤や決意がぎゅっと詰まっています。観る側はそれを「読み取る」ことで、物語の核心に近づいていきます。

つまり「語られていること」と、その裏にある「語られていないこと」を行き来しながら、自分なりに解釈していく。そういう余白のある物語です。

日本の作品で、そうした余白の演出が顕著なのは、初期の北野武監督の映画だと私は思います。セリフが極端に少なく、画面に映っているのは、ただの風景のように見える。でも、「間(ま)」の取り方によって、
なぜか感情が動かされてしまう。

何も言っていないのに、何かが起きている感じ。何も起きていないようで、何かが変わっている感じ。(その顕著な作品は「あの夏、いちばん静かな海」です)

それらを読み取ろうとすることは、鍼灸で目の前の人の呼吸や力の入り具合を観察することと、どこか通じているように思います。その人にとっての「つらさ」は、言葉にしやすいものです。でも、その症状がどうやって出てきたか。そのプロセスは、本人さえ気づかないことが多い。無理をしているつもりはなくても、身体はずっとどこかでバランスを取ろうとしている。そして、あるときふっと限界を超える。

鍼灸では、その「語られなかったこと」を、会話の端々や触診から拾い上げていく。そういう時間を、大事にしています。

だから私は、鍼灸というものは、「正解」にたどり着くための技術ではないと思っています。目の前の人の中や、その外側にある「揺れている何か」。そこに手を添える。そのことだけは、毎回変わらない気がしています。

何が正しいかを判断するより、「どこを見て、どう向き合うか」。それは、治療にも、物語にも、きっと共通してある姿勢なのだと思います。

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「ツボって本当にあるの?」 よく聞かれる質問です。 東洋医学に関わる私自身も、正直そう思ったことがあります。ツボ、経絡、陰陽、五行── たしかに東洋医学には、ちょっと不思議な言葉が並びます。 そして、そこに“科学的な根拠”があるのかよくわか...
21/04/2025

「ツボって本当にあるの?」
よく聞かれる質問です。 東洋医学に関わる私自身も、正直そう思ったことがあります。

ツボ、経絡、陰陽、五行── たしかに東洋医学には、ちょっと不思議な言葉が並びます。

そして、そこに“科学的な根拠”があるのかよくわからない。

私自身も、はじめはそう感じていました。

でも、だんだんとこう思うようになったんです。

どんな医学であっても、結局「物語」を通して体を理解しているんじゃないか。

そのきっかけが言わずと知れた世界的ベストセラー『サピエンス全史』です。

著者、ユヴァル・ノア・ハラリ氏はこう語ります。

「サピエンス(ヒト)は、フィクション(虚構)を信じ、それを共有できる唯一の動物である。」

また、ベストセラー「バカの壁」でお馴染み、解剖学者・養老孟司氏は『人間科学講義』の中で、こう述べています。

“自然科学の古典的見解のもとでは「医師が検査値を読む」という行為は自然科学の対象から外された。医師は検査値をどのように読むか。そうした設問は哲学なり、社会科学なり、心理学なりの対象としてみなされたはずである。つまり「自然科学」ではない。しかし医師が読まなければ検査の意味はない”──人間科学講義P19より抜粋

つまり検査値を読むことで、数値が初めて“情報”になる。

ということは、

数値もツボも法律もお金も── “信じて、共有される物語”だからこそ、現実に機能している。

そう考えると、私たちが「健康とはなにか」「不調とはなにか」をだれかに話すとき、

そこには必ず“解釈”があり、その解釈に使う物語の違いが、東洋医学と西洋医学の違いなのだと思います。

その上に私は東洋医学という物語に立っています。

ツボや経絡といった解釈を通して、 目の前の体を読み取り鍼灸という方法で整えていく。

それは、“なんとなく”とか“昔からあるから”ではなくて、

私自身がその物語に立ち、そこで見た体の変化を患者さんと共有できること。

それが治療の土台になっているように感じています。
それもまたひとつの「物語」でしょうけど、私はそれを大切にしています。

それを自覚していることが、私の鍼灸治療の原点です。

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なんとなく疲れてる。でも、どこがつらいのか、どうしてなのか、うまく言えない。そんなことありませんか?
たとえば、朝起きたときのなんとなく体が重い、深く息が吸いづらい感じ。人と会話するときに、ほんの少し体のどこかに力が入ってしまうあの不快な感...
18/04/2025

なんとなく疲れてる。

でも、どこがつらいのか、どうしてなのか、うまく言えない。そんなことありませんか?

たとえば、朝起きたときのなんとなく体が重い、深く息が吸いづらい感じ。

人と会話するときに、ほんの少し体のどこかに力が入ってしまうあの不快な感じ。

ちゃんとそこに“ある”はずなのに、どう言語化すればいいか適切な言葉が思い浮かばない、、

言葉に出したら出したで、その表現がどうもしっくりこない。。

そんなもどかしい感覚。

鍼灸は、そういう見えない部分にそっと触れていくものだと思っています。

はっきりとした症状じゃなくても、そのどこかにある「言葉にならない違和感」を、体から少しずつほどいていくような。

言葉で表現できない不調は、体を診れば見えてくることがあります。それ自体を引き起こしている現象を言葉(だけ)ではなく、触診することによってなんとか探り出す、そんな鍼灸治療を日々粛々と続けています。

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勝ち負けの世界にいた時期があります。結果は後でついてきましたが今思えば、勝ちたいとか負けたくないとかというよりただ、気づいたら「続けること」が日常になっていたように思います。少なくとも続けてきた明確な理由を、私は言語化できません。鍼灸もそん...
17/04/2025

勝ち負けの世界にいた時期があります。結果は後でついてきましたが今思えば、勝ちたいとか負けたくないとかというよりただ、気づいたら「続けること」が日常になっていたように思います。

少なくとも続けてきた明確な理由を、私は言語化できません。

鍼灸もそんなふうに続けてきたんだと思います。

派手な変化ではなくて、ふと深呼吸ができたり、「なんか前より楽」と感じられる瞬間を積み重ねていくこと。私自身がそうであったように何かを弛まず続けてきた人の体って、静かに、でも確かに疲れていることがあります。

そういう声にならない疲れに、私はそっと鍼をします。派手さはありませんが長年続けてきた時間と技術を用いて。

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かなり久しぶりにニュースレター書きました!鍼灸で何を治している?ふしぎな東洋医学の世界その3!当院の鍼灸治療を受けたことのある方は、施術の流れをご存じかと思います。でも実際にどのような考えに基づいて治療が進めているのか、疑問に思う方も多いの...
14/03/2025

かなり久しぶりにニュースレター書きました!

鍼灸で何を治している?
ふしぎな東洋医学の世界
その3!

当院の鍼灸治療を受けたことのある方は、施術の流れをご存じかと思います。でも実際にどのような考えに基づいて治療が進めているのか、疑問に思う方も多いのではないでしょうか?

たとえば、腰痛や肩こり、自律神経失調、冷え症状の方でも、当院では以下のような手順をとります。

・必ず腹部を触診する
・自覚症状と関係のない部位も触診する
・自覚症状のある部位に必ずしも鍼や灸をするわけではない
・脈を診る

非常に不可思議に思われることでしょう。しかしこのような手順を踏むことで、単に「痛い場所」にアプローチするのではなく、 体全体のバランスを整え、根本的な原因を探る ことができるのです。実は、このアプローチが 治療の納得感を生み、さらなる効果を引き出す 重要な要素にもなったりします。では、具体的にどういうことなのか、解説していきましょう!

腹部の触診──「ここが痛い=内臓が悪い」とは限らない?

施術の際、「みぞおちを押して痛みがあるか」を確認することがあります。このとき、人によっては 「痛い=胃が悪いのでは?」 と心配されます。下腹部を押して痛ければ、「腎臓が悪い?」と不安になることもあるでしょう。しかし、ご安心ください。内臓が悪いかどうか判断しているわけではありません。

一部は全体

東洋医学では 「一部(局所)は全体を映す」 という考え方があります。たとえば、みぞおちの痛みを 「心(しん)」の領域 と捉えます。この場合、みぞおちの痛みは のぼせ症状 の一つとします。熱は上昇する性質があるため、血流が上半身に偏ると のぼせが生じ、みぞおちに凝りが生まれる。これが肩こりや頭痛の正体のひとつと考えるわけです。

また、おへその周り(東洋医学では「脾(ひ)」の領域)に凝りがあれば、それは 消化器系が弱っているサインと考えます。このように、 お腹の状態を診ることで、体のどこに問題があるのかを推測しているのです。

脈診──「脈のコリ」を診る

脈を診ると聞くと、多くの方は「脈拍の速さを測っている」と思われるかもしれません。確かに脈拍の速さも大事ですが、脈の「触り心地」 を重視します。つまり、脈のコリ。ではこれで何がわかるのか?

・軽く触れただけで脈を感じる場合 → 「陽実脈(ようじつみゃく)」のぼせ傾向がある。
・深く押しても脈が消えない場合 → 「陰実脈(いんじつみゃく)」体に熱がこもっている傾向が強い。
これらの情報からのぼせなのか、冷えが影響しているのかを判断 し、それに応じた治療を行うことになります。血管は全身に張り巡らされています。もし 人の血管だけを抜き出してシルエットにしたら、人の形が浮かび上がる ほど密であり、血管は全身とつながっていることがわかります。だとすれば、 脈の状態が変わると体全体にも影響が及ぶ のは想像に難くありません。 脈のコリを整えることは、体のバランスを取り戻し、症状を軽減することにもつながるのです。

なぜ必ずしも「辛い部位」に直接施術しないのか?

ここまで読んでいただくと、 「辛い場所が必ずしも原因とは限らない」

ということがなんつなく伝わったかと思います。

みぞおちに凝りがある人の肩こり は、のぼせが原因である可能性が高い。しかし、 みぞおちに何も問題がなく肩こりがある場合 は、 一時的な血流不足による肩こり かもしれません。「でも、それなら休めば治るのでは?」と思われるかもしれません。

しかし、わざわざ治療院に足を運ぶということは、それほど単純な話ではないはずです。肩こりにしても、ただの血流不足なのか、もっと深い原因があるのかを 見極めることが重要なのです。

このように、 同じ「肩こり」でも、原因が異なればアプローチも変わる ため、肩こりだからといって単純に肩に鍼をするわけではありません。つまり自覚症状は「結果」であって「原因」ではない。だからこそ、 体全体を診ることをとても大切にしています。

当院では、こうした考え方に基づいて施術を行っています。もしご不明な点がございましたら、お気軽にご質問ください! 

院長のひとりごと

最近、ジョージ・オーウェル著「九八四年」という小説を再読しています。これは1950年代に書かれた1984年のを舞台としたSFディストピア小説です。全体主義国家が行き着くところまで行きつき、個人の行動、言葉が逐一監視・統制された近未来社会が舞台です。

この物語で私が一番衝撃を受けたのは、ニュースピークなる英語を改良した架空の新言語。これは英語(オールドスピーク)を為政者が意図的に語彙を制限し、不要な概念を排除することで人々の思考そのものを統制しようとする言語体系です。

例えば、自由を意味する「Free」。ニュースピークではこの「自由」に関する意味から「政治的自由」「知的自由」を排除しました。たとえば「シラミから自由→シラミがいない」「雑草から自由だ→雑草がない」といった単純な意味、つまり「〇〇がない」ということしかニュースピークでは意味しなくなったのです。

また、英語で「Good 」は「良い」、「Bad 」は悪いを意味します。ニュースピークでは「より良い」はGoodの比較級「better(ベター)」ではなく「Plus Good( プラス・グッド)」、「最も良い」は「Best(ベスト)」ではなく「Double Plus Good(ダブル・プラス・グッド」」という単語でより単純化されました。「悪い」は「Good」に否定形の「Un]をつけ「Un-Good」と表現することになりました。

つまり言葉のもつ意味が制限・改変されることで、その言葉に結びついた概念が消え、やがて「そんな意味があったことさえ思い出せなくなる」── 言葉を狭めれば、思考の幅も狭まるというわけです。

参考:「ニュースピークの基本的な原理は、表す言葉が存在しないもののことは考えることができない、ということにある。たとえば、自由の必要性を訴えたいとき、蜂起を組織するとき、これを言い表す「自由」や「蜂起」といった単語がなければ自由を訴えたり組織をつくったりすることは可能かどうかである。「われわれの言語の限界は、われわれの世界の限界でもある」(引用:Wikipedia)

このニュースピークについて考えるとき私はふと、明治時代以降に置き去りにされた 東洋医学 に思い至ります。

東洋医学の言葉が失ったもの

例えば、冒頭にも書きましたが東洋医学には「心」「腎」「脾」といった概念があります。一見すると西洋医学の「心臓」「腎臓」「脾臓」と同じように思われるかもしれませんが、その実、大きく異なります。

たとえば東洋医学の「心」 は、単なる血液を全身に運ぶ心臓というだけではなく、 精神活動や感情のコントロール、上昇性があるなどを含む広がりのある概念です。「腎」 は水分代謝だけでなく、生命力や根源的なエネルギーの貯蔵庫という意味を持っています。

しかし、明治政府以降、西洋医学が主流となる中で、これらの言葉は「心臓」「腎臓」といった臓器の名称 に翻訳され、本来の意味が失われてしましました。もはや、そこにあった 「人間全体を捉える視点」 は消え去り、東洋医学が持っていた多層的な思想は「古いもの」として追いやられたのです。

「神経」という言葉もその一例です。東洋医学では「神(しん)」または「神気(しんき)」は 、精神や意思を司るものを指しますが、これが杉田玄白らによって西洋医学の「ニューロン(nerve)」という解剖学的用語と結びつけられ「神経」という言葉が生まれました。とはいえ「神の通る経脈(道)」という翻訳は、むしろ東洋医学の発想にこそぴったり合っているように思えますが。

こうした視点で東洋医学を見直すと、そこには 身体と精神を切り離さずに捉える、立体的な考え方があることが見えてきます。

余談ですがベストセラー「バカの壁」の著者、養老孟司氏は「ようこそ解剖学教室へ」において「(解剖は)区別できないものにも名前をつけるから、ややこしくなって、わからなくなる」と述べています。つまり解剖学用語(言葉)によって体が切られる。ということは解剖は体を切り分けて名前を付ける行為であり、名前を付けることが物事を分割することと同義であるということ。だとすればひょっとすると東洋医学的なものの考え方を重視しようとすると、分割して理解しようというのは必ずし有効というわけでもないのかもしれません。

言葉は単なるコミュニケーションの道具ではなく、 思考の枠組みそのものを形作るものです。だからニュースピークのように言葉が削られることで思考が制限されるのなら、逆に 豊かな言葉を理解し、適切に使うことで、私たちはより広く、深く世界を捉えることができるはずです。

私たちが何気なく使っている言葉の奥には、それを生み出した文化や思想が息づいているはず。だからこそ、 言葉の本質を見極め、その意味を深く理解することが、より豊かな思考を生み出す鍵になる のではないでしょうか。

参考:「人は国に住むのではない。国語に住むのだ。国語こそが、我々の祖国だ」ルーマニアの思想家エミール・シオラン(引用:Metal Gear Solid V)

言葉を見直すことは、 思考を見直すこと にもつながる。言葉を正しく知ることは、 自分の世界を広げること でもある。もし、ニュースピークのように語彙が制限され、世界の見え方が単純化されてしまったら…。
�それは、私たちが生きる世界そのものの単純化にもつながるのかもしれません。だからこそ、今ある言葉を大切にし、これからも深く考え続けていきたいものです。

その他

寄付について

 当院は京都大学iPS細胞研究所Cira(サイラ)

さまざまな理由で学びを諦めてしまっている子供達に「どこでも、誰でも無料で使える学習教材eboed(イーボード)」

日本赤十字社(令和6年能登半島地震義援金)へ売上の一部を寄付させていただいております。

ご紹介制度

 ぜひご家族・ご友人をご紹介ください。当院ではご紹介を随時受け付けて

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第36回全日本大会・ベテラン二段型の部に出場しました!二段になって初めての大会。結果は一回戦敗退でしたが得るものも多く次に繋げていきます!
22/02/2025

第36回全日本大会・ベテラン二段型の部に出場しました!二段になって初めての大会。結果は一回戦敗退でしたが得るものも多く次に繋げていきます!

住所

千葉県市川市中山4-8-8カノン 103
Ichikawa-shi, Chiba
272-0813

営業時間

月曜日 09:00 - 19:00
火曜日 09:00 - 19:00
水曜日 09:00 - 19:00
木曜日 09:00 - 19:00
金曜日 09:00 - 19:00
土曜日 09:00 - 14:30

電話番号

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