01/05/2026
【 ある日の哲学 】
私たちの行動、活動ひとつひとつを「捧げもの」のように、神さまへの儀式のように行えば、私たちはその行動に縛られることなく自由を知る。
◾︎生きるためには働きのなかで義務を果たさなければいけない。何もしなければいい訳ではない。
その義務を投げ出すとき、投げ出したくなる時の自分の性質を分類してみる。
Tamas(タマス)な状態の放棄とは、私たちの怠惰な気持ちによって仕事を投げ出すこと。
「仕事に行くのが面倒くさい」など。
Rajas(ラジャス)な状態の放棄とは、自分の快適さを優先させ必要なことを後回し、放棄すること。
「やりたくないこと、言いづらいことを有耶無耶にする」など。
Sattva(サットヴァ)な状態の放棄とは、特定の物事への愛着、愛情のために仕事を犠牲にすること。
「自分が大切にしている善きルーティンが仕事に支障をきたす」など。
私たちは怠惰な気持ちも、自分の快適さも、特定のものへの愛情や愛着も抑制して手放さないといけない。
サットヴァの行為を諦めることは簡単ではないが、タマスもラジャスもサットヴァも手放して超えて行かなければいけない。
崇高な行いを優先しようとして社会的な義務に支障をきたしてはいけない。
社会秩序のための行為、活動を神さまに捧げるものとして行えば、それは崇高なものになり物質社会にいながらも自分を何ものからも自由にしてくれる。
◾︎行動とは自分に喜びをもたらすべきもので、後悔を生むものであってはならない。
自分を自由にすべきものであり縛られるべきではない。
行動の目的(ゴール)が社会的な成功や達成、人からの評価、名声だとしたら、それは縛られていることになる。
金、銀、ブロンズ、プラチナ…価値あるものであろうとも自分を縛る鎖になってはいけない。
行動を神さまへの儀式のように純粋な気持ちで行えば、それらの鎖は消えて 心からの自由を得られる。
◾︎精神性も社会性もともに大切にすべきものである。物質世界の喜び、楽しみ、魅力を味わっても、そこに関心を寄せすぎず、自分の義務に戻ること、スピリチュアルな練習に戻ること。その誠実さを忘れてはいけない。
yajñārthāt karmaṇo ’nyatra loko ’yaṁ karma-bandhanaḥ
tad-arthaṁ karma kaunteya mukta-saṅgaḥ samāchara (gita 3-9)
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ムケーシュ先生のヨガ哲学の講義より
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