14/04/2026
会報誌「儀礼文化」の古刹巡り(古刹を訪ねて)定期掲載8回目
※掲載内容は取材当時の原稿のままで記載しております。
「儀礼文化 六号」平成13年7月(2001年)
倉敷市総鎮守 阿知神社 倉敷市
倉敷の古名は四世紀頃、「阿知」と呼ばれていました。倉敷市西部地域の西阿知という山陽本線の駅がありますが、これは古代の呼名を今も残しています。又、倉敷市街の北方にある福山のふもと生坂あたりから東部地域を含めて東阿知と呼ばれていたのです。
倉敷市街地の中心鶴形山の山頂に総鎮守の阿知神社があります。神社の由来によれば、応神天皇(四世紀頃)の頃に、阿知使主が韓国より十七県の人達を率いて帰化してきました。(日本書記)一族は、今の倉敷周辺に住みついたと伝えられ地名「阿知」の発祥の由緒となっています。
阿知神社の社記によると、「神功皇后が三韓外征の際、当時海(吉備の穴海)であったこの周辺にさしかかったとき、嵐にあって暗夜に航路を見失い交通交易の神である「宗像三女神」に祈願された。その時三振の剣が明るく天空に輝いてこの地に降り水路を照らしたので無事航海を続けられた。」とあります。
応神天皇の御世に三女神を祀り、明剣宮と称したのが、阿知神社の縁起とされています。以後、交通交易や商売繁盛の神として信仰を集めてきました。
神域は、市街地の中心、鶴形山の頂上にあり、四季の花が咲き、鳥のさえずりが聞こえ、大自然の恵を受け生命力あふれています。阿知神社境内にある「阿知の藤」は有名で、五月、花が見事に咲く時季には多くの人が神社に参詣し花を観賞します。
今年もNHKTVきびきびワイドで放送されました。
そこで阿知神社の宮司小野直臣さんの「阿知の藤」と「太平記」所感をご紹介します。
阿知神社社内にある境内神社は、荒神社、菅原神社、倉敷護国霊社があります。荒神社の真後ろに倉敷市花の基とされる阿知の藤棚が拡がり、その中央の後方に近郷で一番高い福山(三百メートル)が聳えています。
この藤棚の下に倉敷市が昭和三十一年に建てた立札がある。当時で樹齢約五百年とされていますから、今から約五百五十年も前から学名「曙藤」の名通り、風薫る五月には、夜明けを感じさせる薄紫に朱をさしたような美しい花を咲かせ続けてきました。
「太平記」によれば、延元元年(一三三六)五月、九州より東上してきた足利尊氏の大軍三十万を前に、関係の新田義貞の先鋒、大井田氏経の手兵千五百が三日奮戦して全滅しております。(福山夏の役)
一週間後の兵庫・湊川の戦では南朝方は一日で壊滅していますから余程の戦であったことが想像されます。
その前年建武二年(一三三五)には、備中の目代(国司代理・郷土の人・文官)である淨智が備中の地頭・御家人に尊氏を討つよう要請しましたが、従わず、我が郷土勢から成る手勢数百人が虚を突かれて討死したとあります。(福山冬の役)
当時の河岸線は福山のふもとですから、討死した大半は海流と生活圏を共にする広範囲の島人だったと思われます。彼らにとって数百人の手勢を送り出すことは大変なことだったでしょうし、討死して残された妻子が再び不死鳥のように甦ってくるには百年の歳月を要したことでしょう。夫が、父が、戦死した福山の嶺を見据えて、海を隔て最も近いこの丘に社を築いたとしても不思議ではありません。
福山の戦いで壊滅に瀕した鳥人達が力を合わせて不死鳥のように甦り、夜明けの迎えた証、それが五百五十年前から今に続く曙の花「阿知の藤」ではないでしょうか。
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