30/01/2026
会報誌「儀礼文化」の古刹巡り(古刹を訪ねて)定期掲載3回目
※掲載内容は取材当時の原稿のままで記載しております。
「儀礼文化 三号」平成10年7月(1998年)
宝寿山観龍寺(真言宗御室派別格本山)倉敷市阿知
当山は約一千年前、寛和元年(九八五)現在の倉敷市西岡に西安寺慈照院の塔中寺院(坊)として、堯勢律師によって創建された。その頃は北斗山宝積院と称した。
当時は西岡の辺りが海岸線であり、鶴形山は小さな島であった。戦国時代になると高梁川の流れが変わり、陸地が次第に増え、人が住み始めるようになる。倉敷発生の地といわれる弓場(現・元町)は現在の観龍寺の南下、トンネル辺りである。
この頃、宝積院(後の観龍寺)も此処へ移転した。文献では文禄三年(一五九四)には既にその存在が確認されている。今から四百年以上前のことである。
現在、倉敷市の周辺地域や玉島、児島、水島を合わせた大都市であるが、この当時は現在の鶴形山南山麓を中心とした小さな集落であった。
江戸時代になり倉敷が天領となって発展するに従い、観龍寺の檀信徒も増加して行った。
宝積院から観龍寺と改称し、檀主大島氏から寄進された現在の地へ伽藍を建立したのもこの頃である。(寛永年間一六二〇年代)
このように倉敷という町の起源から共に歩んで来たのが、観龍寺の歴史とうことになる。
更に檀信徒だけでなく、倉敷全体の人々と氏神妙見尊を通じて交流があった。それは西岡時代からの妙見尊も寺と共に移転されたが、そのまま倉敷村の氏神として人々の信仰を受けることになったのである。当時は妙見尊の村まつりは備中では有名な行事であった。
明治二年に神仏分離令により、阿知神社が町の鎮守として新たに創設され、妙見尊はもとの観龍寺へもどり現在に至る。
その間約三百年、当山は別当として、妙見山山頂(現鶴形山)に於て北斗護摩を焚く等、町内安全を祈り続けたのであった。
因みに北斗山という山号の北斗とは妙見尊を指し、宇宙の星の中心を神格化したものである。
歴代の住職は堯勢律師から今日まで四十四代を数える。その間江戸中期に二度続けて出火、伽藍を焼失したが、檀信徒の協力を得て再建、往時をしのぐ規模に整備され今日に受け継がれた。
幕末の慶応二年には奇兵隊が倉敷代官所を襲撃し、観龍寺にたてこもり、陣屋を置いたことは有名な話である。その時に傷つけられた槍の穂先の跡が山門のくぐり戸の上に今でも残されていて、倉敷の史跡となっている。
備中西国第二十九番霊場
ご詠歌
罪もかも 消えよと祈る観龍寺
遠きくにより 参る身なれば
毎月第二日曜日は当山客殿で裏千家淡会により妙見尊に献茶を行う盛大な妙見茶会が催される。
火事を知らせた狐の鳴き声
言い伝えによると、夜、住職の枕元で狐の鳴き声がする。はてこの辺りに狐など居ない筈だがと思って表に出てみると、稲荷社の方に火の気が見えた。あわてて消し止めたので大事に至らず、稲荷宮の使い狐が知らせてくれたと感謝したとある。江戸の終わりの話か。妙見宮が村の鎮守であった為、寺内の鎮守であった為、寺内の鎮守として享保年間に京都伏見から五社稲荷を勧請し、現在も境内西の端、淡嶋明神と共に祭祀してある。平成十年七月には、そのお堂を全面的に改修した。
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