「からだはうす」

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宗教性とエンターテイメント人々が目に見えない神秘的な力や霊力にリアリティを感じる時代が過ぎて登場してきたのが宗教である。本来の“まつり”に宿る精神性は、宗教が登場する前の個人としても集団としても生存していくことが必死の命題であった時代の頃の...
19/12/2025

宗教性とエンターテイメント
人々が目に見えない神秘的な力や霊力にリアリティを感じる時代が過ぎて登場してきたのが宗教である。本来の“まつり”に宿る精神性は、宗教が登場する前の個人としても集団としても生存していくことが必死の命題であった時代の頃の話である。海や山の恵み(魚や動植物も含め)を祈願し、感謝の礼を盡す。疫病や災害などの災いを防いだり悪霊などを祓う。作物を作るようになってからは、五穀豊穣を願い、そして感謝する。祖先の霊を慰める。というようなことが“まつり”の根拠としてあった。つまり、そうした心性は自然界の脅威や奇跡や不思議さという目に見えない大きな力に対する人々の本能的な身構え方として行われてきた。

その後登場した宗教は目に見えない大きな力を神と名付けた。或いは、神と呼ばれていた事象に教義説明を施した。地域に根差していた崇拝の対象物が抽象的な象徴となり、言葉の力が人々の心に革命を起こした。宗教はそれまでの暗黙の伝承による物語と儀式を利用しながら勢力を拡大していった。暗黙の伝承による物語と儀式、すなわち古来の“まつり”の建てつけは宗教と格別に相性がよかった。全ては神という偉大なる中心概念に引き寄せられ、社を囲って音楽が奏でられ、歌い踊り、仮面、仮装の異空間が広がっていった。そうして新たに大きな共同体=国家が整えられていった。

日本に限れば、個人の信仰心よりも儀礼的な行事に参加することが神を意識する場であった。祀りから祭りへ、お祭りが宗教性と結びつくのは、日本特有の多神教はもともとがエンターテイメントの伽藍であったということだ。行事やお祭りがとてつもなく多い日本、みんなと一緒思想が根付いた理由のひとつに行事やお祭りへの集団参加があるだろう。

そして、日本のお祭りは宗教性を帯びながらエンターテイメント化していく。数多おわする神々のキャラの豊富さを見れば頷ける。多神教的な感性は沢山の妖怪や化け物をも生み出してきたが、その感性は現代に引き継がれはっきりと映し出されている。現在、世界を席巻しているマンガやアニメ、キャラクターグッズの人気はそうした背景の続きなのである。日本人の宗教性には娯楽がたっぷりと塗されているのだ。お伊勢参りしかり、初詣しかり、登山しかり(山は御神体であり、頂上には祠がある)、その他諸々。それが都市空間においても娯楽性満載の商業主義的な現代のお祭りに引き継がれている。しかし、私たちの無節操な欲望にもその背後に古来からの精神性が見え隠れしているはずである。形を変え、向きを変えた現代の精神はかつての命たちをどう活かしていくか、心の身構え方が問われるところである。

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10/12/2025

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お祭り的な社会装置の限界 ②

現代社会における“まつり”の形骸化 

本来、“まつり”とは、人と自然、死者と生者、神と人間の関係性をつなぎ直す場であった。しかし現代の“お祭り”は、本来の儀礼的・霊的意味が失われてしまったように思える。「お祭り」を「町おこし」に利用するのは、共同体の結束という意味では理にかなっていると言えなくもない。伝統保存会の人々が神輿を担ぐ姿は勇ましくもある。そこには、賑わいがあり、演出があり、組織と段取りがある。しかし、その奥に、神の気配はあるだろうか。その場に立ったとき、身体が震えるような畏れや、見えない何かに包まれるような感覚が、果たして残っているだろうか。

“まつり”とは、かつて、生と死の境界に立つ行為だった。人はその中で変容した。苦悩を吐き出し、仮面をつけ、叫び、踊り、涙を流し、時には魂を神に明け渡しながら、“まつり”の只中で新しく生まれ直した。けれど今のお祭りには、「変わってしまった人」がいない。お祭りが終わっても、元の場所へ、元の顔で、元の言葉を話して帰っていく。それはもはや、「まつりごと」ではなく、単なる「催し」、「イベント」になっている。

古来の“まつり”は、地域社会のつながり、共同体の再生・再確認のための儀式であった。

しかし現代では、少子高齢化や都市化、個人主義の加速により、お祭りは観光客の誘致を主とした商業主義と伝統文化の保存活動へとすり替えられている。

“まつり”の核心には、“神に触れる”体験=神聖への接続がある。しかし現代の感性は、「神」や「見えないもの」に対する信が弱くなり、“まつり”の霊的側面が忌避・誤解・無視されがちで、“まつり”の精神性が希薄になっている。それでも、“まつり”の精神性は、忘れられたわけではない。“扱いにくいもの”として避けられているのだ。「神とは何か」などと語ると、怪しまれ、「見えないものに触れた」という体験は、黙っておく方が無難だとされる。だが、“まつり”の本質はまさにその“見えないもの”との交感にある。魂が震え、記憶にならない何かが残る、そうした出来事の重みこそ、“まつり”がもたらす“生の深まり”ではなかったか。

本来まつりには静寂や沈潜、祈りと瞑想、苦しみを浄化するプロセスがあった。しかし今は、まつり=にぎやか=盛り上がり=SNS映えというような単なるテンションの高揚を目的とした熱狂に堕している。そしてもう一つ、まつりの形骸化を招いたのは共同体の崩壊である。かつてのまつりは、村全体、地域全体の“まつりごと”だった。老若男女が参加し、それぞれの役割があった。神輿を担ぐ人、笛を吹く人、踊る人、ただ見る人。それぞれが“まつりの環”に生きていた。けれど現代では、その環が解体され、まつりは「担う人」と「見る人」とに分かれ、さらにそれらの人々さえも高齢化し、減少している。

からだはうすでは「まつりの呼吸」の奥の院としての位置付けで「舞踏」を行なっているが、それは、こうした失われた“まつりの魂”を、ひとりひとりの身体のうちに取り戻すための行である。まつりとは、誰かが“準備するもの”ではなく、あなた自身のうちに点火されるものである。神は、外からやってこない。呼吸とともに、汗とともに、震える身体とともに、あなたの奥から、あの祭壇に立ち上がるの

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08/12/2025

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お祭り的な社会装置の限界 ①

「まつりの呼吸」のワークではよく変性意識という言葉が使われますが、それは日常生活ではあまり体験しない感覚体験のことです。意識や無意識と違って言葉に馴染みがないだけで、よくわからないものとして扱われがちです。しかし、意識の変性装置は日常生活の此処彼処に見られ、且つ、誰もが行なっていて、それを導く装置は社会の至るところに設定されています。

簡単に列挙してみると、ディズニーランドのようなテーマパークで遊ぶことやお酒を飲んで大騒ぎすること、さらに音楽のライブやスポーツイベント等で興奮することは日常意識の縛りからの開放を目論んだ社会装置として機能しています。これらのレジャーはみな「お祭り」的な要素を含んでいます。そして、ストレスの解消や心の癒しをもたらしてくれます。勿論、年中行事として各地域で催される「お祭り」も同様に非日常に誘う装置として設定されています。

集団的興奮ではなく個人的な過緊張からくる意識変性もあります。危険を伴う登山や異国への旅、厳しい修行、重篤な病気なども非日常的な感覚体験となります。そして、忘れてはならないのが恋愛です。寝ても覚めても彼や彼女に夢中な時は通常意識を逸脱していると言えるでしょう。

このように変性意識とは何も特別なものではありません。私たち人間は日常と違う意識状態になることに魅かれるようにできています。脳には報酬系と言われるドーパミンというホルモンがあり、その分泌が非日常の興奮と快感をもたらします。

変性意識という言葉の一般的理解は、ある種危険で異常な意識状態になるイメージだと思われますが、実際、無意識的生体反応として日常に逐次現れています。私たちは自らをコントロールできる範囲において羽目を外したがっている自分に思い当たると思いますが、変性意識への希求は異常なことではなく、人間の生命衝動の必然としてあります。

私たちの日々は、ほぼ学業や仕事や家事の忙しさで忙殺されています。そうしたことに携わっている時間は、気持ちも行動も対社会に向き合っており、次々に目の前の作業に追われています。それでも、そうした生活の間隙を縫って上記のようなレジャーに身を投げ出して、日頃のストレスを解消したり、楽しんだりしているわけです。ということは、そうした時間は何かしら生命の必然性から生まれたに違いありません。心身には癒しが必要だということです。

しかし、日常の中に心身の癒し装置がたくさん設定されているにもかかわらず、あえて呼吸法を行って、変性意識の体験をしようとするのはなぜか。それは、現代社会における日常的癒し装置としてのお祭りやイベントには、自らの内面をしっかりと見つめて、思考や反応のパターンを認識して変革したり、より創造的な感性を掘り起こしていこうとする視点が欠けているからです。つまり、本来、お祭りに内在する人間生命の奥深い衝動にフォーカスせず、単なる商業的イベントか、伝統を守っているという自己肯定感を満足させるための行事になっています。

「まつりの呼吸」は単にストレスを解消するとか、健康を維持するという目的にとどまりません。私たちの生活に絡み付く不安や不満への根源的理解につながるアプローチです。私たちの意識は通常、社会のシステムに適応しようと働きます。しかし、生命の心身システムは、社会に対して適応しようとするだけではないエネルギー衝動が組み込まれています。「まつりの呼吸」はその生命衝動を体験として理解していこうとするもの

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からだはうすのブレスワークは「まつりの呼吸」へ名称変更となりました。※プログラム(内容)は同じです。そのあたりの説明をブログにUPしています。読んでみてね😜https://karadahause-mitaka.amebaownd.com/p...
06/12/2025

からだはうすのブレスワークは「まつりの呼吸」へ名称変更となりました。

※プログラム(内容)は同じです。
そのあたりの説明をブログにUPしています。読んでみてね😜

https://karadahause-mitaka.amebaownd.com/posts/58231541

12月のまつりの呼吸はまだ空きがあります。
是非ご参加くださいね。

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作戦終了後、隊員たちは「楽しかった~」と全員がつぶやいていましたよ🤣

破れかぶれ作戦無事終わりました〜作戦は・・・・
23/10/2025

破れかぶれ作戦
無事終わりました〜
作戦は・・・・

舞台ができました!
23/10/2025

舞台ができました!

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