10/08/2020
【 マインドフルネスのブームについて 】
6月は、月末に文章をあげたので今月は早めに書こうと思っていました。
しかし7月末どころじゃなく8月の頭になってしまいましたw
世界で起こっていることがあまりに劇的でかつ速いので、気持ちがついていっていないのでしょう……。
個人的生活の中でもそれに準ずることが起こっています。
仏教から学んだ事と、日々の事件を繋いで思索するというのはなかなかの学びです。
そんな中で今までなら関心が強かったのに、それが薄れてきたものがあります。
何と「マインドフルネス」です。
イベントの時、短くても必ずやっていたものなのですが....。
だいたい「マインドフルネス」という言葉を、様々な意味で使う色んな人が増えすぎて、もはやどこが意味するところか? というのが分からなくなってき始めています。
ですから、この事について今月は書いてみたいと思います。
日本でも、ここ5、6年この言葉が人々の口にのぼり始めました。そして「マインドフルネス」の基本的定義は「自分の内、外で今この瞬間起こっていることにあれこれ判断を入れずに意識を集中すること」だったように思います。
初めてこの瞑想を実習する人にとっては、この定義は的を得ている感じでした。
(何せ大人になった私たちの意識は大半が先行きに対する心配や、過ぎたことへの後悔で占められていると思われるので。)
ですから、初心の頃はこの定義を頭に置いて実習すればスッキリした気分になり、それがストレスを減らし、生産性に関わる能力を増してくれるのなら言うことはない、という感じがあります。
即効性もあるので、それなりの社会的認知を得たのだと思います。(脳科学的なエビデンスもありますし。)
しかし、人間の意識が関わる領域は「いま、ここ」だけではなく、将来の事も考えますし、強い情動を伴った過去からの記憶がよみがえってどうしようもない……という事もあるでしょう。
習慣的に瞑想し、習熟すればするほど、過去の影響や、将来のことを考える時の恐怖から、そうすんなり人は自由になれるものではないことがわかってくるように思います。
(逆に初心者のうちは上にあげた効果が、即効性で感じられるところは確かにあります。でもその後も人生は続く...のです。)
そういう瞑想が身に付いてきたが故に、面と向かわねばならないものが出てきた時、重要になってくるのが、そもそもこの瞑想が何を目指して出来たものかを考えて、その原則をハラに落とす…ということになるかと思います。
そもそもマインドフルネスは、仏教由来であることは、万人の知るところだと思います。
ただ、それだけにとどまらず、精神医療に使える、脳力開発に使える、ということが「マインドフルネス」として世界的現象になった価値だ、と考えるのが科学的教養を持つ現代人である、とする人も多いのでしょう。
しかし、ここで原点の仏教にもどって、そこでは何を目標に設定してこの瞑想があるかと言えば、「諸行は無常である」「諸法は無我である」……などのお釈迦さまが発見されたダルマを、如実に知る、ということかと思います。
「如実に知る」とは、客観的に外側の事象として知るだけでなく、まさに自分という存在がそのダルマの中にあり、そうでしかあり得ない、という様に知ることだと思います。
そして、それは自我の働きの抑制や解体に向かう方向の知であって、自我拡大とは逆方向です。
しかるに、社会的認知が高まっている「マインドフルネス」は“私”をますます洗練し、強化するという方向性が色濃くあり、仏教としての目標を台無しにするところがあります。
この点がよく吟味して、科学的見識がどこまで幸福に貢献し得るのかを考えなければ、と思うところです。
(とは言え、科学的見識が加わり、瞑想に付きまとう“怪しげ”というイメージが払拭されたのはよかったことだったと思っています。)
とにかく、「時間労力を使うに値するものは“私”を良くしてくれるものだ」、という価値観があまりに一般的なので、その価値観からでもいいから「瞑想行」を始めてみれば、体感的に違う方向での幸福を人は感じとり始めるものかなーと思っていたのですが、そうでもない人もけっこういるようです。
そしてどうも、最近は「セルフコンパッション」というコンセプトをつぎ足して、瞑想をしてきたが故におこる感情の動揺を何とかしようとする傾向があるようです。そのやり方に一定の効果はあるのかもしれませんが、もっと原則的な問題があるように思います。
瞑想を通じて自我の働きがうすくなれば、自分は自分だけで生きているわけではない、という感覚が強まり、いわゆる昔の人が使った「おかげさまで」という感覚が強くなってくるように思っていたのですが、そんな人ばかりでもないようです。
マインドフルネスは、そういう感覚を育て、世界と自分との一体感を強める…と考えていたのですが、そうでもない方もいて、その上「コンパッション」というコンセプトを足すと、世界から分離しながら操作している自我がより洗練されて内面化されるだけになって仏教の目標からは、ますます離れていくように感じています。
問題は、「そのままの私」が考えている幸福感や価値観が吟味され転換されることが必要で、それには「謙遜さ」という精神的態度が必要だし、転換点を越えて先に進んだ人がいて、その人の住んでいる世界への「信頼」が必要だ……ということになろうかと思います。
「謙遜さ」と「信頼」、これは伝統的には「宗教的な人」の持っている資質です。この資質が育たないで人間が幸福でいれる、というのはちょっと私には考えにくいアイデアです。
私が初めにマインドフルネスという言葉に出会ったのは、25年位前で、ベトナムの禅僧テイク・ナット・ハン師の著作からでした。
ハン師の唱えられるマインドフルネスには、今日になっても私は異論は特にありません。
そして、師がGogol の社員研修に招かれた時に言われた
「マインドフルネスは、あなたが幸福になるために扱う道具ではなくて、あなたがそれによって導かれていくものです。」
という言葉は、今日においても心しておくべき金言だと思っています。
ちょっと最近「マインドフルネス」の社会的認知度は上がったけれど、何か違和感を感じる面もあるので、思っていることを言葉にしてみました。
異論のある方もあろうかと思います。
何か場所を作って意見の交換などしてみたいな……位の気分でおります。
今月は手短に、今引っかかっていることを言葉に出してみました。