『いつか自分で事業を興そう』
そう思ったのは18歳の時(大学1年生)でした。
当時は、とにかく自信がなく、人と接するのも憂うつで、家で本を読んで、テレビを見て、夕方頃に散歩する。
というのが日課でした。
読んでいる本のジャンルは、ほとんど自己啓発系でした。
気落ちして、不安に苛まれて、本を読んで気持ちを取り直す・・・そんなことを繰り返していました。
巻末で著者を見ると、ほとんどが経営者でした。
『俺も将来は独立して何かやろう。どうせ今みたいな感じじゃ会社員としてうまくやっていけないだろうし、そもそも性分に合わない。』
そう思っていたことがきっかけでした。
何より、自立したい、という思いが強くありました。
その後、縁あってエステティシャンとして就職し、貴重な経験を積ませていただきました。
社会人2年目の時、資格取得のための通信講座で、「エステティック発祥はフランス」
という文を読み、『いつかはフランスへ行って、その起源を勉強してみたいな』という思いが芽生えました。
ぼんやりとしていた思いも完全に消えることはなく、少しずつフランス語の勉強を始めました。
出発2年前には、強行的に仲介業者と契約し、逃げられない状況を作り、そこからフランス留学への気持ちが固まりました。
ワーキングホリデービザの取得は難航しましたが、出発ギリギリで間に合いました。
そして、2012年12月にフランスへと出発しました。
この時は、帰国後、自分でお店を出すかどうかはハッキリ決めていませんでした。
と言うよりも、まだ決断するほどの覚悟が決まっていませんでした。
シャルル・ド・ゴール空港の到着は、18:30頃。
外はすっかり暗くなっていました。
1人で海外に来たのはこれが初めて。
恐怖と不安で体はガチガチに固まっていました。
『もう簡単に帰ることはできないぞ。俺生きて帰れるのかな?』
そんな思いで、フランスでの生活が始まりました。
到着は2012年12月21日。
ホームステイ開始が2013年1月5日。
その間の2週間は、ユースホステルやホテルをつなぎ過ごしていました。
ホームステイまでの2週間で、よりフランスでの生活に慣れよう、という考えでいたのですが、
宿泊費を抑えるために行ったユースホステルでの生活が厳しく、苦しいスタートとなりました。
その日までに、フランス語の勉強を独学で2年(仏検3級レベル)、ECCで1年会話レッスンをしていました。
にも関わらず・・・現地に行ったらほとんど通用せず、生きていくために必死で語学の勉強をしていました。
特に大変だったことがリスニング。
聞き取ることができなければ、まともに返答することすらできません。
当初は、会話が通じないことが嫌で、出歩くことも億劫。人と話しても恥ずかしい思いをするだけ、という理由で、
英単語をいうだけで何とかなるマクドナルドばかり行っていました(ビッグマック、ポテト、サラダ、コーラがよく通じました)。
年が明け、しばらくするとホームステイが始まりました。
ホストマザーと、もう1人の留学生ロハ(アメリカ人、ローラ。フランス語の発音だとロハというような響きになります)との共同生活です。
ホストマザーは留学生の受け入れをしていて、私のつたないフランス語を何とか聞こうと頑張ってくれました。
ロハは、19歳のアメリカ人の女の子でした。事前にかなりフランス語を勉強していて、この時、すでに流暢にフランス語を話していました。
困っても、母国語の英語で何とかしてしまうため、フランス語も英語も上手く話せない私は半端ない劣等感を抱いていました。
翌日には、凱旋門近くにある語学学校へ行き始めます。
最初に、語学力チェックがあり、私は、DELF A1とDELF A2の間くらいと言われました。
先生に、「少し厳しいかもしれないけど、DELF A2のクラスへ行くか、その一つ下に行くか、どっちにしますか?」
と言われ、迷わず、
「A2でお願いします。」
と言いました。
ワーキングホリデーで、かつ仕事をすることも考えれば、ぼやぼやしていられない。
それに、今のフランス語の話せない自分は嫌だ。そう思い、無理を承知で背伸びをしました。
こうして語学学校が始まりました。
私がまず通ったのは、週5日の3カ月コースでした。
日本人、中国人、韓国人。
それに、サウジアラビア人とイタリア人で構成される15名程のクラスでした。
当初、語学学校では悔しい思いばかりしていました。
先生に聞かれる質問の意味がよくわからず、発表もうまくできず、
周りの皆が当たり前にやっている課題もできず・・・。
完全に、周りの足を引っ張っている状態でした。
一番苦労したのは、主語、動詞、形容詞などの単語をフランス語では知らなかったことです。
だから、先生の言っている説明や解説もよくわかりませんでした。
先生に、「あなた、無理しないでレベルを一つ落としたクラスに行けば?」
と言われていましたが、文法はかなりわかっていたので、『単語がわかればついていける』と思っていました。
だから、周りに心配されながらも、そのクラスに留まり続けました。
当時は、生きていくために、必死でフランス語を勉強しました。
ホームステイ先では、朝8:00から朝食を皆で食べるというルールがありました。
私は、7:00に起きて、朝食までフランス語の勉強をしていました。
慣れないうちは、ホストマザーが8:00ちょっと前に呼びに来てくれます。
その際に、私の部屋を空け、勉強している姿を見たホストマザーが、
「今までに数十人の留学生を受け入れてきたけど、朝から勉強している姿なんて見たことない。やっぱり日本人は勤勉、っていうのは本当なのね。」
と驚いていました。
以来、ホストマザーは、私と日本人をえらく気に入ったようで、友達が来るたびに、
「日本人の留学生を紹介するわ。この子は、朝からフランス語を勉強しているのよ。」
とお決まりの文句で紹介してくれるのでした。
それから朝の勉強は続き、2カ月もした頃には、語学学校のクラス内でも上位に入るレベルまで上がっていました。
同時に、到着2か月後には、エステサロンでの仕事も決まり、フランスでの生活にも慣れ始めてきました。
少し気持ちに余裕が出てきた私が次に考えていたことは、
「初心者が1人で行くにはちょっと治安が悪いエリアだから、ある程度生活に馴染んでから足を運んだほうがイイ」と言われていたモンマルトルに行くことでした。
フランス滞在4カ月。
この頃は、日本帰国後の開業に向けて、日本から持ってきた本を読みながら構想を練っていました。
とにかく、帰国後、無駄にダラダラしないために、即行動できるように、今できることは全部しよう、と考えていました。
その中で一番考えたことは何か?
それが、「店名」でした。
本を読んだ限りでは、
・わかりやすく
・読みやすく
・頭に残りやすい
・ネットでキーワード検索した際に、他と重ならない
と書いてありましたが、私の考えた名前などとっくに他で使われていて、候補を100個くらい挙げましたが、全く決まりませんでした。
モヤモヤした気分を切り替えよう。
そんな気持ちがモンマルトルへ足を運ぶきっかけとなりました。
モンマルトルは、パリ市北部の18区にあります。
かつては芸術家の街であり、次第に歓楽街へと移り変わっていったようです。
ムーラン・ルージュ、サクレ・クール寺院、テルトル広場など観光名所としても有名です。
また、「アメリ」という映画の舞台としても知られています。
私がホームステイをしていた場所から、サクレ・クール寺院前にある地下鉄2号線「Anvers(アンヴェール)」という駅までは、
地下鉄で30分くらいです。
アンヴェール付近になると、観光客が増えてきて『もうすぐだな』という感じになりました。
地下鉄を出ると、すでに多くの人がいました。
目の前に広がる丘と青い空を前に、『写真でも・・・』と思いましたが、間違いなくスリが多い感じがわかったので、
今回は隙を見せないように写真を撮ることはやめました。
人通りが多い道に吸い込まれるようについていくと、その先には、サクレ・クール寺院がありました。
初めて見た時は、あまりの美しさにしばらく言葉を失いました。
『来て良かったぁ』
そう思いました。
丘を登ること15分程度。
サクレ・クール寺院に到着しました。
寺院がある場所は、高さ83mと言われています(モンマルトルの丘の高さは100メートル程度)。
そこまで高くはないはずですが、パリ中心部は高い建物がないため、そこからの景色は最高です。
景観を損なわないために、古い建物を内部リフォームして生活していくことは確かに不便ですが、
それがあったからこそ、この素晴らしい景観が残されていたと思うと、これからもその考えを大事にしてほしいな、と感じました。
初めてモンマルトルに行った際は、緊張もあってか店名のことを考える余裕もなく、ぶらりと散歩をして家路に着くのでした。
すっかり気に入った私は、その後も何度も足を運ぶことになり、やがて、店名が浮かぶ瞬間がやってきます。
サクレ・クール寺院を目指してモンマルトルの丘を登り、大勢の観光客に混じりながらパリ市街を眺める。
いつの日か、
『相変わらず素晴らしい眺めだよなぁ』
という感想から、
『一体、他の人は、この景色を見て何を思うのだろうか』
という考えに変わっていきました。
例えば、紀元前にもこの丘はあったはず。
その時にも、同じようにこの場所から景色を眺めて何かを想った人がいたのかもしれない。
それから世代は何度も入れ替わり、
パリにはバイキングが襲来し、
フランス革命も起こり、
2度の世界大戦を経て、
そうやって、やっと、今見ている街並みが作られていった。
会社ができたのも、歴史からすればごく最近のこと。
将来は、会社とは違う何かができるかもしれない。
その大きな流れからすると、自分の存在などなんてちっぽけなのか。
じゃあ、何もできないのか。
何かすることには意味がないのか。
いや、そうではないし、
そう思ってしまったら精神的に人生が終わる。
生き物は、生を受けたら本能的に次の世代を残すために生きるだけ。
人間もそうなのか。
違う気がする。
何か嫌なことがあっても、
『明日は何か良いことがあるかもしれない』
そう思うからめげずに生きていける気がする。
そんな希望や期待を事業に盛り込むことができたら素晴らしい。
英語で言えば、「HOPE」
フランス語で言えば、「ESPOIR」
あたりになるな。
でも、これはすでに多くの企業や商品にも使われていて、店名にはできないな・・・
今までの歴史を踏まえ、
未来へとつなげるため、
今できることは何か・・・
何かこう、常識を逆さまにひっくり返すような・・・
でも、面白おかしくっていう要素がないと、人を引き付ける魅力に欠けるんだよな。
後ろを振り返ると、サクレ・クール寺院。
サクレ・クール
サクレクル
逆さまにしたら、
ルクレクサ
「ルクレクサ!!」
キーワード検索をしたら、こんな変な造語を使っているところは見当たらず、
これでようやく店名が決まりました。
同時に、開業当初は恥ずかしくて言えなかったのですが、
「この世界に笑撃(インパクト)を」
という理念もこの時生まれました。
決して呼びやすい名前とは言えません。
手続きの際などに事業所名を言っても、係の人に、
「もう一度言ってもらえますか?」
と言われる始末です。
領収書を書いていただく際も、
「ルクレクサでお願いします」
と言うのには未だ慣れません。
でも、いずれは堂々と「ルクレクサ」と言えることを小さな目標に、
3年目を迎えるのでした。
※2015年10月「ルクレクサ誕生秘話1~5」から抜粋
る
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