堤ヶ岡メンタルクリニック

堤ヶ岡メンタルクリニック 心理療法に力を入れている精神科クリニックです。精神科医・公認心理師の立場からあなたのお悩みに見通しをつけるお手伝いをいたします。ちゃんとやめていける安全な薬物療法を心がけています。

 当院は完全予約制の精神科、心療内科のクリニックです。完全予約制としましたのは患者さんの一人一人と落ち着いて話し合いを持ちたいからです。
 薬物療法の進歩で急性期の精神科疾患は非常に治りやすくなっています。しかし維持期や再発防止のことを考えると薬物療法だけでは心もとないです。そこで何らかの精神療法との併用が必要です。とくにうつ病をについては安定期の認知行動療法が再発防止に効果があることがわかっています。私は精神療法のエッセンスはアドヒアランス(患者さんが治療に参加していること)の維持にあると考えています。それには患者さんと時間と場所を決めて定期的にどっしりとあっていくことがどうしても必要だと考えるようになりました。完全予約制ということでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、以上の理由がありますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
 もちろん通院されている方の予約外の診療には対応いたしますが、電話連絡をしていただきたいのとある程度待っていただくことはご容赦ください。

26/11/2025

<精神科医のトレーニングについて>
今回は精神科医のトレーニングについて話してみたいと思います。理由は2つあって、一つは一般の人達に対して、私たち精神科医のイメージを補完するためにいろいろ情報を出していきたいということ、もう一つは若い精神科医たちやこれからなろうと考えている人たちに参考にしてもらえると嬉しいと考えたからです。
<その1医学生の中の精神科>
 医学教育の中の精神科はマイナーといわれ、内科や外科をメジャーと呼ぶのに対して区別されています。耳鼻科、皮膚科、眼科などもマイナーと呼ばれています。医師国家試験に受かるにはメジャーを中心に膨大な量の知識が必要で、かつ限られた時間でこなすとなりますとどうしてもメジャーの学習に割く割合が多くなります。カリキュラムもそうなりますので、当然のこととして臨床実習の時間も少なくななります。精神科は経過の長い科ですので短い臨床実習では全体像を掴むことなく精神科実習は終わっていくことになります。私の臨床実習はちょうど時期が病棟クリスマス会にあたりましたので、学生の出し物として歌の練習をしていたと思います。(笑)こんな調子なので医学生のうちに精神科のトレーニングを受けることはありません。当然強い感銘を受けることはありません。このような状況ですので医療に素直に、そして情熱をもって取り組もうとする医学生たちが精神科医を進路に選ぶケースは少ないです。私の友人たちをみましても、「そもそも医者になりたくなかった」「趣味を優先させたかった」という意見が多かったですし、皆さん消去法で選んでいるのが実情と思います。私にしたって「プライベートを充実させたい」というのが多かったわけですし人のことは言えません。ここまでをまとめますと、医療について熱心な学生は精神科医を選ばない。精神医学への興味というより消極的な理由で選んでいる。卒業時点で精神科の知識はゼロに等しい。以上の三点が言えると思います。ここで皆さんは精神科医という人種についてがっかりしたり、不信に思うかもしれません。それについて擁護しておくと、導入は消極的でもどの方も私の知る限り、専門性をもって立派になっております。「趣味を優先させたかった」といった彼もいまや教授になるとかならないとかそういった業績をあげています。(けっこう有名人です)
<その2研修医のトレーニング>
 先にもあげた通り、卒業したての若い精神科医はほとんど何も知らない状態で始まります。まずはじめに求められるのは薬物療法を覚えることです。向精神薬は同じ薬効をうたっていても臨床での振る舞いがまるで違うことがおおく、種類自体も多いのではじめは面食らうと思いますが、次第に薬のイメージが身についてくると思います。このイメージが大事で、私たちの上の世代の精神科医たちはこの理解のためにさまざまな向精神薬を自分自身で服用したりしました。中井久夫先生が活躍されていた時代です。私は若い時、こういう先輩方の話を当直のサブで入った時や休憩時間のときに聞くことができると、どれもイメージが豊かで大変ワクワクしたものです。このときにイメージが元になって、また実際の自分の経験をもとにアップデートを重ねてきたものが現在の自分の薬物療法になっています。またこの営みは今でもつづいていてアップデートを重ねています。エビデンスも大切にしたいのですが、いち開業医くらいでは薬屋さんの情報提供を鵜呑みするとそれぞれの製薬会社の思惑に惑わされてしまうのでかえって自分のやり方の方を貫くほうが手応えがあったりします。
 薬を覚えるのと並行して納めてほしいのが精神病理学、症候学です。これは本来なら薬物治療と対になるべきものです。たとえるなら血圧の薬と血圧計の関係です。薬を出してもその結果を評価、判定できなかったら、出しっぱなしと一緒です。精神病理学、症候学というのは精神科におけるものさし、はかり、共通言語と言えるもので一人の患者さんを継続的にみていくには必要なものです。しかしこれは医学部の学生の段階では決して触れることはないでしょう。一般臨床医と精神科医の一番の違いは病理学、症候学を修めているかどうか、それが診療の質につながります。昨今、かかりつけ医構想の影響で一般臨床医でも精神科疾患もみられるようにしようという流れがあります。わかりやすいうつ病診療といった講演、勉強会が開かれていたりします。私個人としては精神科は非常に面白い領域なので参入される方が増えるのは嬉しいのですが、ぜひ病理学、症候学まで修めて診療してもらいたいと思います。一般臨床医でも我々と同じ薬を処方することができますので、その結果として見立てのしっかりしない投薬は病態を複雑化してしまい、結果として長期化、患者さんの時間を奪うことになります。多くの先生に精神科に興味を持っていただけるのは嬉しいことですが、病理や症候学は基礎の基礎なので修めた上で投薬をしてほしいです。
<その3研修医、その後>
 病態を評価しながらの薬物療法を提供できるようになったならば、一人の患者さんの入退院とその後の外来フォローまでそこそここなせるようになっていると思います。今後は症例を積み重ねて、精神保健指定医や専門医の資格を目標にするというのが表向きな目標になるでしょう。これはこれで重要なことですが、このコラムの意図とは離れるのでここでは触れません。精神科医としての生涯のスタイルに関わる話をしていきます。
 さて、いままで修めてきたトレーニングは医療モデルに基づいています。精神科医療にはもう一つモデルがあって成長モデルというのがあります。<研修医、その後>の段階ではこの成長モデルを意識してもらいたいのです。はじめに医療モデルについて話をしますと、医療モデルというのはターゲットとなる臓器があってそれに異常があるので医者が手技や投薬を通じて改善するというモデルです。お医者さんの仕事は大体はこのモデルに含まれます。精神科で当てはめるならばターゲットは脳で脳の異常に対して投薬を通じて治療するということになります。私がこれまで内因性の精神疾患とよんできた状況(いわゆる精神病)であれば医療モデルで十分対応できます。しかし心因性の問題に関しては医療モデルでは対応できません。心因性の原因は、本人とその環境の間に起こってきている「状況」(大概は不適応)であると捉えます(課題)。社会の中の現象なので医者が治療の主体となり何かを施す、与える(医療モデル)は成り立たちません。かわりに患者さんが課題に対して主体的に関わって原因を超えていく、それのをサポートする、見守るというのが成長モデルに基づいた援助になります。精神科医の中には医療モデルで十分だと嘯く人がいます。私の感覚では他の診療科と比べたときに最も際立つ精神科の特徴が心因をあつかうことなのでその領域をあえて避けるのはもったいないことだと思います。また避けようにも患者さんを選ばなかったら、程度の差はあっても心因を扱わないわけにはいかないと思われます。以上の理由で若い精神科医の皆さんには成長モデルをベースにしたアプローチに興味を持ってもらいたいと思います。これは具体的には教育や臨床心理学の領域に接近していくことになると思います。これはほとんどゼロから始めることになるので拒否感が強いかもしれません(病理学や症候学を真面目にやっておくと拒否感は和らぐとおもいます。)この領域への導入が少しでもスムーズにしたいというのが本稿の目的に一つであります。アドバイスとしては「精神分析の知識は抑えるべし」です。心因をあつかうときに大事になる心理療法や成長モデルという考え方は、精神分析ともに育まれてきたものです。現在ある心理療法は、おおくがフロイトの精神分析から派生、独立、反発から生まれてきたものです。精神分析をおおよそ捉えてから、主だった分派を作った方の直接の著作を読んでみて自分に合いそうなものを自身の心因の診療の軸にすると良いでしょう。私の場合はフロイトは読んでいてくどく感じて、ユングの著作のほうが率直な感じがして合いそうだったのでユング派、分析心理学のほうに勉強を進めていきました。このあたりは人それぞれで、その人らしさが輝く理論、学派を選ぶと良いと思います。繰り返しますが選ぶに当たっては直接の著作をあたってみて著者との相性というか、もっと砕けて言えばこの人との対話が楽しそうかどうかできめるのが近道です。
 

28/10/2025

<自己肯定感と自己効力感>
ある方が面接中に「わたしは自己肯定感が低くて」という話をされました。自己肯定感を話題にされる方は時折いらっしゃいます。そういうときに私は「自己効力感」についてご紹介しています。自己肯定感と自己効力感は似ている言葉です。自己肯定感の方は「自信がある」に近いところがあり、これが強く働くといろいろ楽しく暮らせるとは思いますが、一部「根拠のない自信」というような部分も含まれているので場合によっては周りの迷惑になったり、自分で改善点に気が付きにくかったりします。またこの「根拠のない自信」は天分のもの、生まれつきの才能とも言えるくらいのものでバランスを意識しにくいものという印象があります。一方、自己効力感というのは「自分にはできる」という感覚で、やはり「自信」と関連していますが違いは実績を伴っている点です。どういうことかというと、あることを実行しようと計画を立てます→計画通り実行します→達成感を味わいます。繰り返します。この一連の実績の積み重ねで自己効力感は育っていきます。私個人の見解ですが、自己肯定感と自己効力感の関係は幸せとお金もちの関係に似ています。両者の間には論理の飛躍があり、お金があっても幸せでないこともあります。しかし一般的にはお金があったほうが幸せというのも説得力がありますよね。こんな関係に似ています。またお金と一緒で自己効力感も貯まるものなので、自己効力感に注目するほうが現実的で扱いやすい目標になると思います。
 精神療法の枠組みの中で話をしますとまず大きな目標を決めます。その目標につながる「達成可能な目標」を決めます。それを課題として行動してもらって次回の面接に報告してもらいます。課題が達成できれば、難易度をあげた課題を設定し、次回までの新課題とします。達成できなければ難易度を下げて次の課題とします。ここでのポイントは「達成可能な目標」を設定する能力です。自分自身でで目標を決めることが重要ですが、大抵の方はここでつまずくので治療者とよく話し合って目標設定をするのが良いと思います。治療者側の援助のポイントとしては、①クライアントが課題を十分イメトレできているか、②目標を自分以外こと(本に書いてあった。ヒトと比べて・。テレビ。など)で決めていないか、以上2点をを留意してみてあげると良いと思います。また課題に失敗したクライアントが「次はうまくやります」とか「今回は〇〇のせいで・・」といって課題の修正をやりたがらないケースもよくあります。もちろん修正がなくてもいいこともあるのですが、ギャンブル負けと一緒で頭が熱くなっていたり、意固地になっていることも多いので、私はいつもより丁寧に話し合いをすることにしています。失敗時の行動はその人の基本的な振る舞いに関係していることが多いので、そこでの行動の変化は大きなチャンスともいえます。話を元に戻しますと「達成可能な目標」を設定することができて実際に行動、達成し・・という実績をつみ重ねていきますと自己効力感が育ってきます。すると全くの初めてのことでもうまくいきやすくなります。応用範囲がひろがるやり方です。様々な方に勧めることができます。今回は自己効力感についてお話しました。

10/10/2025

<こども劇場>
診療の中でメインテーマと別の相談を受けることがあります。その中で圧倒的に頻度が多いのが「子供についての相談」です。私も子供がおりますから関心が高いのはよくわかります。子供さんを観察するうえで大事なのは多様性です。学校での子供、家での子供、お父さんの前での子供、お母さんの前での子供など、いろんな振る舞い(性格)をする様子が見られるならば良いサインと考えていいでしょう。子どもはまだ自分のスタイル(性格)に固まっていない。こだわりが生じていない(自我)のでいろいろな役柄ができるということができます。友人との間ではこの役柄、父親との間ではこの役柄という風にです。さながら複数のお芝居を並行して興行しているような印象です。こころにはこういう多様性を好む、または色々な役柄の可能性を広げようという部分があって、子供の頃はその影響がわかりやすいです。(当然大人にも働いています。)これが10歳を超えてくる頃から一つにまとまる力が強くなり始めます。それでも大人に比べるとまだまだ自由です。ですから色々な実験的なお芝居が繰り広げられます。その中で代表的なお芝居の一つは「父子の物語」です。私も含め、世のお父さんたちはこの演目の「こども劇場」に巻き込まれます。なかには違和感なく「こども劇場内の父親役」を狂ったように演じているお父さんもいらっしゃるでしょう。迫真の演技!?で力比べや相撲をとったり、子どもに試練を与えたりしていると思います。一方子どもの変化に違和感を感じるお父さんは役に入りきれず戸惑いを感じていると思います。その時にはこども劇場にまきこまれていることを意識しつつ、<こども劇場内の父親の役割、役柄>を引き受けるつもりでいると良いと思います。お父さん側にも効能があります。というのもおとなになると自分が強すぎてなかなかスタイルを崩すことができません。こども劇場に積極的に参加することで、張り合ったり、エラそうにしたり、これまで生きてこなかった父親像を体験できる可能性が広がります。大人であっても舞台が整えばこころは子供の頃と同じように広がることを好みます。こども劇場内の出来事なんだと思えば自由に楽しめるでしょう。
 こども劇場で行われる劇を参加しながら楽しむには<昔話を知る>ことが役に立ちます。なぜならこども劇場は子供の心の発達を目的に起こってくることですから、それほどたくさんのバリエーションがあるわけではありません。ある程度の雛形が存在しています。しかもモデルとなっている元ネタは昔話という形で世の中に出尽くしていると言っても過言ではないでしょう。今回例に上げた「父子の物語」であればエディプスの物語が有名ですし、父娘であれば青ひげなんていう怖い話も参考になります。たくさんの昔話(と児童文学)に触れていると眼の前でおこなわれているこども劇場は何かしらの物語のアレンジであることに気がつくと思います。(子どもたちがこれらの物語を予習しているということは絶対にないのですが)劇のあらすじや展開がわかれば、自分の役柄もわかるし場合によっては自分なりのアレンジを加えてみてもいいでしょう。こういう積極的な参加は子どもたちには大ウケです。以前お話した遊びの空間を維持しながら劇が展開していくことができれば理想的です。どれだけの数の演目かわかりませんが、ひとしきり父子の物語が演じられたあと、ふとあなたとお子さんの個別の人間関係が定まっているはずです。その時お子さんはもはや〇〇君(名前)としてあなたの前に立っており、このあたりが心理面から考えての子育ての終了地点と思われます。

26/09/2025

<内容と形式>
先日、草津で温泉落語を見てきました。落語というのは子供の頃テレビで見ることはありましたが、生で見ることは滅多にありませんでした。ですので比較的手軽に触れる機会があるのはありがたいことです。私は職業的に人の語りをよく聞く機会がありますので、ついつい比較するようにききますと噺家さんの語りというのは大変わかりやすい、聞きやすい。ということに気がつきました。聞きやすいというのははっきり聞こえるということではなくて、情景が浮かびやすいということです。その理由は主語がはっきりしているからだと思いました。特には演目の最中、「わたしは」とか「はっつあんは」とか主語をつけて話すわけではありません。しかし「上下(かみしも)」という技法によって主語を際立たせているようです。具体的には喋る人が変わると演者の首の向く方向が変わります。客席に向かって左が上手、向かって右が下手といい、目上の人に話すときは上手をむく、目下の人に話すときは下手を向くとルールが決まっているのとのことです。「上下」のルールは他にもあって、身分を表したり、家の中と外の区別を示していたり多岐にわたります。こういうルール、形式がしっかり決まっている事によって、初めて聞いた話でも複雑な人間関係がイメージできるようになっています。診察に来られる人たちにも話がわかりやすい人とわかりにくい人がいます。中にはわかりにくい事を気にして「なんて言ったらいいか・・」と躊躇する方もおられます。そういうときは形式を整えるように聞くと良いです。「それは誰が言ったこと?」「その時どう思ったの?」など少々野暮に思えてもいいので聞くようにしています。初学者のころは会話の流れを途切れさせてはいけないとおもって、わかりにくいなぁと思いながらも黙って聞いていることが多かったのですが、実際はイメージしにくいところは聞くことのほうが利益が多いです。患者さんの語りというのはそのままでは未完成の原稿みたいなもので私たちは編集者となり一緒に語りを完成させていくという気持ちで取り組むとやりやすいでしょう。治療者との間で完成した語りは再び患者さんに取り込まれ、以前よりはっきりした構造を持ってイメージされます。このあたりのことを感覚的にいうと「スッキリした」ということになります。
 形式を整えるといった時、一番始めやすいのは主語をはっきりさせることです。自己トレーニングとしては主語を気にしながら書くことを勧めています。取り組みやすさでは日記を書くことが適当かと思います。ある方には自分を赤、Aさんを黒というふうに主語によって色を変えてもらうことも提案しました。流石にここまでしてもらうと構造が立ち上がって来るように感じられ、格段にわかりやすくなりました。他者にわかりやすいということは本人にも理解しやすい(スッキリしやすい)ということになります。その方にはトレーニングと割り切って自主的にこれを続けてもらっています。ちょうど落語の「上下」の練習みたいですね。その他の形式に関わる事柄としては5W1Hなんていうのもあります。小学校のときに習ったことがあるだろうと思います。いつ、どこで、だれが、何を、どのようにと言うやつです。精神療法の一つとしてこれらを整えながら語りを聞くのは大変有用ですが、そればっかり気にして聞き返していると揚げ足取りのような印象になってよくありません。程々にしておきましょう。今回は以上です。

16/09/2025

<2つの便り>
 今年の夏は暑さが格別に思います。そんな状況で不眠や食欲の低下を言われる方がおられます。これらは主には精神科の領域ではなく、そのことは患者さんも十分わかっておられます。そのうえでなにかできないかなという時、いわゆる身体科のような相談を受けた場合には私は漢方薬を選ぶことが多いです。
 ある方は精神科的には一山越えたところで今は落ち着いている方ですが、食欲がないという話をされました。舌を見ると(漢方薬を選ぶ時舌の状態を診察します)色が薄くむくんでいました。小便の色を聞くとそんなの見たことないとのことでした。飲水の量を聞いてみると「テレビで一日2L以上飲むようにと言っていたので」というのを真面目に実行していたということでした。<2Lというのが足りないときもあるし、多すぎることもあるよ。おしっこを観察して透明なら飲み過ぎだし色が濃かったら足りないというふうに判断しましょう>と話しました。今日のタイトルは2つの便りですが、1つ目の便りは小便です。2つ目は言わなくてもわかるかもしれませんが、そう大便です。このおしっこと◯んちのことに「便」(たより)という字を当てた先人の経緯はしりません。しかし実際には2便は毎日とどくあなたの体からの報告書となっています。健康に気を配るなら注目しない手はありません。小便ですが回数もですが色も注目しましょう。朝起きたて、帰宅時それぞれ違うはずです。すぐに判断に飛びつかず観察を重ねて自分のデータを知っていきましょう。私の例ですが、この夏はエアコンの調節を「小便が透明だったら弱くする。色が濃かったら強くする」というように、、もちろん飲水量も加味して調整していました。エアコンは体感だと強く使いがちなので、「心地よい」より少し暑さを感じるほうが体が動きやすいことに気が付きました。こんな感じでデータを生活に活かすと良いと思います。大便の場合も同様で色、形、長さなどよく見るようにします。食べ物との関係も意識します。昔我が家で奥さんの好みで白米に玄米が混ざっていた時期があってその時の便は今とは違っていました。その変化にひとりで感心していました。ネットやテレビの情報は平均であったり、大勢の人々にとっては正しくても自分、個人についてはさほど当てはまらなかったりします。自分の2便については普段から観察して生活に活かしましょう。昔、ベテラン医師に「精神科は寝れて、飯が食えて、便がでてればなんとかなる」と言われたことがあります。これは精神科の療養病棟の話ではありますが、難しい社会の話を抜きにして、素朴ないきものとしての平穏に注目するなら睡眠、食、2便は普段からもっと関心を払うべきでしょう。<社会的な自分>から<いきものとしての自分>に重心を移すとずっしりと腹が据わる感覚が得られるでしょう。
 今回は2つの便りというテーマでお話していますが、次にお話したいのは「便り」というスタイルについてです。むかしの便り、いわゆる手紙のやり取りを考えますと返事を書いて次の便りが来るまでの間、待たなければなりませんでした。気にはなるけどもジタバタしても仕方ないから、いまは横においておこうということで間があく。この待つという行為がとても重要になります。いま世の中はどんどんスピードアップしてきてこの待つということが難しい世の中になっています。しかし少なくても睡眠、食、2便の3つに関しては「便りを待つ」という<姿勢>が大切に思われます。逆にこの3つへの悪い態度は「コントロールしよう」とする姿勢です。睡眠を例にとりますと、睡眠の環境をコントロールすること(清潔な下着や寝具、明日の準備をするなど)は存分にやったらいいですが、睡眠自体はやってくるのを待つことが大事です。やってくるのをお迎えする姿勢ややってくるのを邪魔しないという心持ちが一番良い結果につながります。種まきなんかもそうですね。土作りをしっかりして種をまいたらあとは待たないといけません。我々の本業の精神療法も待つのが仕事のようなことがあります。理屈はあっていればすぐに答えが出ますが、こころは理屈だけではできていないのでたとえ出た結果が同じであったとしてもそれには時間がかかります。見守りながら待つことが重要です。
 今回は2つの便りということで毎日の2便の様子を観察し積み重ねて健康に活かすこと。便りを待つようなスタイルのほうが健康につながりやすいこと。以上のお話をさせていただきました。

01/09/2025

<ジャッジはしない仕事>
 裁判員制度が始まったときにある心理師の方が、自分は選ばれた通知が来たとしても辞退するということを公言していました。私は確かに厄介事だし忙しい中で辞退したいのはわかるが、それだと制度自体が回らないのではないかと考えました。その方の次に続く言葉が「だって私達の仕事ってジャッジすることを一番離れたところにある仕事じゃないですか」でしたので私はハッとしました。その時のことを今でもよく覚えています。私は精神科医ですしこの方は心理師です。一般的には専門家なわけです。当然の流れとして日常的にジャッジを求められます。「私は悪くないですよね」とか「夫の方針と私の言い分はどっちが正しいですか」「私にはわからないので先生にきめてもらいたい」などです。
 意外かもしれませんが心理療法家が真摯にその仕事をしようとするとき、ジャッジをしないことからはじめます。ジャッジをしないというのは、ジャッジを嫌がる、アンチジャッジとは違います。非日常的な意識の持ち方という意味です。日常の生活ではジャッジをしない態度というのは成り立たないですから特別に時間と場所を限定します。すなわち<診察室内で><決まった時間>で、<ジャッジしない空間>で、話をしましょうというのが、理想条件での心理療法家の仕事なのです。日常の感覚では得と損とか正義と悪とか加害者と被害者とか分けて考えます。反対に分けないと話が進みません。法律はジャッジのするための規範です。社会の中での出来事です。テレビで判決のニュースを見たことがあると思います。勝訴という紙をニッコニコで出している側とくやしそうな顔をしている側と映ると思います。つまり問題は解決していないのです。我々心理療法家はこころの世界での解決(といえるのか)を目指すので話を聞くとき社会的なジャッジの機能を少し横においておきます(手の届く範囲ですが)。つまりいじめの問題を例に上げると被害者と加害者の区別もゆるく捉えます。もちろん共感と言うのが大事ですから、クライアントが被害者なら自分が被害者の気になって聞いている部分もあります、ありますがどこかで「被害者も加害者もおなじ<いじめという舞台>にあがっていて、役どころが違うだけだ」ととらえている。ジャッジをしない態度で話を聞いているところがあると思います。どうしてそんなことをするのかというと、こころの深いところを見つめていくと自他の区別が曖昧になってくる。そういったジャッジがゆる~くなってくる性質があるのがわかっているからです。想像しやすい例としては抱っこされる子供と抱っこする母親を上げてみます。ともに<抱っこを>経験しているのであって、子供はこの抱っこをどう体験しているかとか母親として我の子の抱き心地はどんなかとか考えていないと思うのです。あえて区別を入れるなら、子供は抱っこされるのと同時に母親を抱っこすることを経験し、母親は子供を抱っこする体験とともに自分が抱っこされる経験をしているといえると思うのです。ややこしい説明になりましたがこころは深いところに行くと自他の区別がゆる~くなります。ですからこころを扱うときはジャッジをしない態度で備えていないと仕事が失敗するのです。こういうわけですので心理療法家はジャッジと一番離れたところにある仕事なわけです。私の場合は精神療法家のほかに精神科医という肩書もあり社会にだいぶ組み入れられてしまっています。すなわちジャッジの世界です。昔は心理師の方が自由に見えて羨ましかったものですが、公認心理師制度が始まったとき、内容を見てみるとだいぶ社会に組み入れられる内容となっていたので、不機嫌な仲間たちをみてはにやにやしていました。社会的な解決はともかく、こころの世界の解決(救済の印象もある)はジャッジしない態度がキーです。それでもしっかり悩みは乗り越えられます。それをしっかり知っているのが精神療法家です。今回は以上です。

26/08/2025

<精神療法と遊び>
精神療法と遊びは深い関係があると聞いて、皆さんはどう思われますか。たしかにそうだと思われる方もいるかも知れないし、遊び半分でなんて不真面目だと眉をひそめる方もあるかもしれません。実際に遊んでいる子どもたちを見てみると、暇つぶしとは本質的に違う事に気が付きます。とても真面目に遊んでいるのです。真面目というよりも夢中で遊んでいると言い換えたほうがいいかもしれません。この夢中というのが重要で、精神療法においては、自由画でも箱庭療法でも夢中になるということがセラピーの成功の鍵を握っています。以前、トリックスターについて話題に上げました。トリックスターをはじめとした心的な機能は通常の意識下では活動が制限されています。そういう状況ですので、<意識>が夢中になっている隙をついてそれぞれが暗躍ができるようになるわけです。この「暗躍」は意識にとっては「統合」を危うくする異質なものですが、だからこそ硬直した状況を破る新風を入れてきます。面白いことに遊びにおいてはこの危うい「統合」がかえって「夢中」の継続の条件を担っているように思われます。想像してみるとそうだと思いますが、遊びではすべてが思い通りになると途端に遊びへの情熱が冷めてしまいます。適度にアクシデントがあることが面白さであり、危うい「統合」が遊びが継続する条件になっています。
 セラピーではクライアントが夢中になるかどうかが重要であるという話をしました。しかし精神療法を実践された方はわかるかもしれませんが、実際にクライアントが夢中になっていくには時間がかかります。相当数のケースで夢中になる前に中断してしまうのではないでしょうか。これが導入の難しさです。一方遊びでは呆れるくらい導入がスムーズです。見知らぬ子ども同士が公園で出会って、ろくな自己紹介もせずに遊びが始まるケースを見たことがあるでしょう。この違いは遊びにおいては、遊びの空間とも言うべき特別な現実性を持った空間があるのです。想像してみてほしいのですが、あなたが一人で砂場の横に座っていたとして、一人の子供が砂団子を差し出して、「お団子どうぞー」と言ったとします。おそらくあなたはノータイムで「ありがとーもぐもぐ、おいしー」と応じるのではないでしょうか。子供もあなたも団子が砂であることは十分わかっています。重ねて、いくら子供でも砂の団子が食べ物でないことはわかっています。それでもなお遊びの空間では十分にお団子である現実性を持っています。また自分のつくった団子が相手の口のあたりで崩されて地面に落ちてしまってもそれは「食べられた」のであって、十分報われたと感じる事ができるのです。この虚構(嘘)であるとわかっているけども強固な現実性が遊びの空間の特徴です。それなのでそこで経験したことは十分に実体験として感じられ、本人の成長の糧とすることができるのです。またほとんどすべての人がその空間に誘われていく肌感覚をすでに知っているのも遊びの導入がスムーズな原因です。このためほとんど言葉を必要としません。一方セラピーでは遊びの空間にちかい、いわばセラピー空間が必要なのですが、いかんせんクライアントにはその経験がありませんから、非日常的な空間であること。夢中になっても許さされる空間であること。時間が限られていること。などセラピー空間を理解していく過程が必要です。したがってセラピーが本格的に導入になるまで時間がかかってしまうのです。この期間に行われていることを「(精神療法の)枠をつくる」といいます。枠がつくられてしまえば遊びの場合と同じ様にセラピー空間に入っていくことができます。入ってしまえばその空間内での夢中の活動経験が本人の成長の糧となるところは遊びの場合と同様です。以下に小説においての、セラピー空間にすっと入っていく様子をえがいた例を挙げます。
 ”誰もいない待合室、そこでボーッと「今日は何を話そうかな」と思う。そう思っているだけで、考えがまとまるわけではない。それが不思議なことに、先生と向かい合い、先生が「どうぞ」というように私をみる。すると、次から次へと、私の口から言葉が出てくるのだ。「わたしってこんなにお喋りだったのか」と、自分でも驚くほどなのだ。”(作品:限界 文芸社 著者:東郷知可)
 上記では先の砂場の例と同じようなスムーズさでセラピー空間に入っていっています。夢中の効果で「統合」が緩められ、本人の驚くほどの変化が生じています。精神療法の枠がしっかりできている例だとと思います。クライアントだけでなくセラピスト側も枠やセラピー空間についてよく理解されているのでしょう。
 述べてきたようにセラピー空間は遊びの空間とかなり似ているので遊ぶこと(特に子供さんと)は治療者にとっても良いトレーニングになります。ですから遊戯療法をベースにそのトレーニングを積んできたセラピスト方たちは、どのスタイルの治療面接も上手な印象があります。長くなりましたが以上のなります。今回は精神療法と遊びというお話でした。

12/08/2025

<いきものハッピータイム>
精神科医を長くやっていて<ヒト>というのはとことん<悩むことを宿命としている生き物>だな考えるようになりました。火のないところに煙は立たずということわざがありますが、なんの問題もないところから煙を産み出しているような話もよく聞きます。他人から見ると滑稽なくらいに見えますが、当人たちは大騒ぎです。精神療法では本人たちの視点と他人の視点の両方をバランスよくもちながらケースに関わることが必要になります。また事態は複雑であって、何も問題がないように見えても実はその深層には分裂を抱えていることにも気がつくことも多い。そんな日常診療でよく出会う分裂の一つが<首から上の生活>と<首から下の生活>の分裂です。皆さんは人間は動物とは違うと自信を持って主張すると思いますが、首から下については他の哺乳類と大した違いはありません。人間は頭こそが人間の本体だと勘違いしてしまいます。小説「宇宙戦争」に出てくる頭が風船のように膨らんで細い触手をもついわゆるタコ型宇宙人のデザインは、本来は進化した未来の人間を想像して作られたデザインでした。映画「マトリックス」では人類は仮想空間内で複雑な社会を形成しながらも真実は培養液槽に閉じ込められていて肉体は機能していませんでした。こういった発想の背景には身体性の軽視が根深くあると思います。
 話を戻しますと頭と体の分裂は、精神科においてはコントロール(頭)できない、身体症状(体)という形で持ち込まれることあります。こういうとき、はじめはなんとかコントロールできないかという視点でがんばります。それでうまくいくこともあるのですが、前述の通りバランスをとるというのが精神科の持ち味なので「体(症状)のメッセージは何でしょう。」や「大型犬を一匹、幸せに飼える生活を想像しましょう」など持ちかけてみます。ここでは犬を例にあげましたが、なにもペットショップに行く必要はありません。大型犬というのは首から下のあなた、動物としてのあなたのことです。大型犬が暖炉の前であくびをする姿を見るとほっこり癒やされるのに自分が食後あくびをするとき、どれだけその体験を味わえているでしょうか?すぐに周りを取り繕おうとしていませんか?
 ペットショップに行く必要はないと言いましたが、この話がでたあと実際に犬を飼い始めた方がいます。この方は診察のときに、「首から上の話は・・」と会社の話を、「首から下の話は・・」と犬との生活の話を始めます。犬の散歩のときに出会った早朝の体験を情感たっぷりに語ることがあり、印象に残りました。首から下の生活を楽しんでいることを確信しました。
 別のある方と日中の眠気について話をしていたときです。昼食後の眠気を気にされていました。私は「お腹も満たされて、安全も感じられて眠くなるのは当然のことですよ いきものハッピータイムです」と伝えました。アイマスクをして15分程度、ハッピータイムを味わう、(午睡ともいう)を提案させてもらいました。もちろん減薬も合わせて選択肢にあげましたが、いきものハッピータイムという言葉がおもしろかったようで、昼休みの過ごし方としてこちらを採用してくれることになりました。頭中心から体中心の視点を移すことで気が付かなかっただけですでにある豊かさを発見することができます。いきものハッピータイムは何も食後に限定ということはないでしょう。頭の想像を超えて、いきものハッピータイムに私達は囲まれているのかもしれません。ピントが合わないだけなのです。また難しいもので、いきもの生活ばっかりでしたら文明や発展はなかったでしょう。つくづく社会生活といきもの生活の両方をバランスとりながら生きていくのが<ヒト>の生き方、宿命みたいのものと感じています。今回は以上です。

25/07/2025

<自分を映す鏡>
 診療の中でクライアントさんが自分を見つめ直したいおっしゃることがあります。名言はされなくてもクライアントさんは状況を変えたいと思っているし、その道筋を見出したいと思っているのではないでしょうか?今回は自分を映す鏡というテーマでお話します。
 自分を見つめ直すという言葉を聞いたときに反省するという言葉を同時に連想した方も多いのではないでしょうか。反省は英語で言うとreflectionといいますがこれには反射という意味があります。<自分>を反射させたものを受け取る。<自分>を客観的に見て、それを元に考えるなどを反省といいます。決して倫理的に自分を追い詰めることでありません。追い詰めることはモチベーションや覚悟にはつながりますが、どのように変わっていくかの方向性には関係しません。もちろん自分を見つめ直そうというモチベーションは必要なのですが、過度に倫理や正義感を持ち出すのは危機感ばかり煽って成果を産まないのでやめておいたほうがいいでしょう。次に問題となるのは主観と客観の問題です。自分の視点を主観というのであるから、自分が客観または三人称視点をもつというのは、(言葉遊びになりますが)厳密には不可能です。せいぜいミックスとして捉えた主観を主観が強いところと比較的客観性の強い主観に分ける作業をするくらいが限界です。これは作業ですから上手い下手があるし、トレーニングが必要になります。ここまでが前知識になります。
 前にも書いたかと思いますが?精神科は他の診療科と比べて主観だよりの診療科です。客観的な指標が乏しいのです。チェックシートや質問紙が客観的かというと血液生化学検査やMRIとくらべたらお粗末なものと考えます。しかし自信を持って診療したいので、我々は自分自身を精度の良い<ものさし>とするべくトレーニングを積みます。これは精神療法家を目指すのであれば特に重要です。トレーニングとして一番有効なのは症例検討会に自分の受け持ちケースを持ち込み、複数の同業者に聞いてもらい意見をもらうことです。初心者の人の中にはケースを出すモチベーションが低い人もありますが、これは初学者のときのチャンスだし、倫理的な要請でもあるのでぜひ取り組んでもらいたいです。次点としては自分が精神分析を受ける方法です。これはつよいモチベーションが必要なので一般向けではないかもしれません。もし受けるのであればユング派の精神分析をおすすめします(主観っ!!)
 ここまで自分を映す鏡というテーマで話をしてきました。すでにお気づきかもしれませんが<自分>を見つめ直すには<他人>が必要なのです。全身鏡の前に姿を晒すことに若干の抵抗を感じる人は多いでしょう。それが他人となると更に勇気が必要です。他人と大きく捉えましたが誰でもいいわけではありません。これは皆さんすぐ想像できると思います。安全な鏡としての他人はトレーニングを積んだ精神療法家が適任かと思います。スタートしては療法家との対話を通して気づきを得ていけば良いでしょう。急性期がすぎると次の段階として自分一人でもreflectionができるようにスキルを身につけていきたくなるものだと思います。その方法としては日記、夢の記録、自由画をおすすめしています。今回は親しみやすそうという点で日記の方法を説明します。まず上記の3つの方法は<書く>ことが共通しており、このことが非常に重要です。どういうわけかクライアントさんは書くことを避ける傾向があるので、日記はまず書くだけでもなんとか継続してもらって<書く>を定着させることを目指します。これだけでもクライアントさんはいろいろな気づきを報告してくれるようになります。これだけでも十分ですが、先へ進むには頃合いを見て日記の書き方の指導をしていきます。ポイントは①出来事と②それについてどう捉えたかを分けて書くということです。①は客観的な視点を鍛えます。②は認知とも言いますがこれが決まると行動が決まります。出来事と認知を分けて書く方法は日本語の文章としてはぎこちないものになりますが、自分を映す鏡をしては十分なツールだと思います。書きとられた②認知のパターンは自分の性格そのものと言ってもいいほどのクセが表現されているので、少しの気恥ずかしさをともないながら自分を知ることができるでしょう。こうして得た三人称視点(もどき)はあなたがたが社会の中で出会うあらゆる問題に対して有効な道しるべ示してくれると思われます。今回は以上です。

18/07/2025

<ゾンビタウン>
 フェンタニルの日本からの密輸が問題になり、アメリカでのフェンタニル中毒の街、ゾンビタウンの動画を見ました。衝撃を受けました。前かがみで立ったまま固まっていて、人目もはばからず手には注射器を持っている人たちが写っていました。まさしくゾンビタウンで映画のセットのようでした。世界で一番裕福で文明的なはずのアメリカの街の様子とはとても思えませんでした。日本では手術用のフェンタニルが品薄状態で日本には回ってこないでどんどんアメリカに流れているという話は聞いていました(もちろん密輸のルートではない)プラス密輸ということだと思うのですが、第二のアヘン戦争という言葉を聞き、人間のそこの見えない悪意を感じました。フェンタニルはとても重要な疼痛管理における薬物と聞いています。薬物中毒は薬物自体の問題というよりは使い方の問題といいます。薬物自体は道具なので道具の使い方が問題というわけです。わたしはフェンタニル自体は馴染みはありませんが向精神薬という依存の危険のある道具を扱う以上、安全な使い方を心がけないといけません。今回は向精神薬の安全な使い方について二点を話していきたいと思います。
 <目的をはっきりさせる>道具のであることを考えれば当然ですが、どうして薬を飲んでいるかの目的をはっきりさせることが必要です。医学では主訴をはっきりさせるといいます。疼痛の目的、睡眠の改善、めまいや慢性刺激との距離感を取るため色々考えられます。向精神薬はほぼどんな場合でも役に立つ使い方ができます。だからこそ使用の目的が曖昧になります。精神科医の方の場合は担当の患者さんのはじめのカルテを見直してみるいいと思います。みなおしてみると初診のときの悩みは随分解決していることに気がつくのではないでしょうか。この傾向は心因の場合は特に顕著です。めまいを主訴に来院された方ですが、最近はめまいの話は話題に上がりません。特別な心境の変化が報告されたわけでもありません。心因は本人と環境との間に原因があるので、状況は常に変化しています。それに反映して表面的な症状は割と変化しやすいです。ですからどうして薬を飲むようになったかを考えてもらえると今、それが必要かをつねに考えるようになってきます。医師と相談して服薬の継続について話し合うといいでしょう。
 <医者と一緒に決める>中毒または依存症の方は一人で決めるということを手放そうとしない。こういう傾向があります。自分でやめられるとか決められるとかおっしゃります。結果的にはやめることはできませんがそれでも自分でやめられるという考えを手放したがりません。これは依存症治療を難しくする割と核心的な問題だと考えています。心理学者のカール・ユングはこれについて「患者は(自分でコントールできるという考えを)絶望する必要がある」といっています。インパクトのある言葉ですが、絶望するからこそつながれるものがある。それが徹底的に治療に必要だと言うようなことをあとに続けています。わたしはこの考えは仏教において親鸞の「他力」の考えにつながるように感じています。依存症治療は宗教性を扱うことが多くなるのも無理からぬことだと思います。話は大げさになりましたが、ややこしい依存になる前に手を打とうというお話です。そのためにおすすめしたいのは、薬は医者が管理する。手持ちを作らないということです。小児科のママさん文化かと思ったりしますが薬を手持ちで持っていたいという希望をする方は割といらっしゃいます。他科のことはわかりませんが、向精神薬の頓用という使用法は薬物依存になるリスクをとても上げます。ですので慎重になるべきです。自分に対して客観的になるということは言葉遊びを抜きにしても不可能です。したがっていずれは乱用になるでしょう。ここで自分では乱用と思わないことが悲劇的です。以前<わたしの減薬戦略>でも話しましたが定期的に通院してもらうこと。つまり薬が切れたので来ましたというような診療の設定は避けることも<医者と一緒に決める>ということに含まれています。
 薬自体はいいも悪いもなくただの道具ですから悪いのは使い方になります。わたしは今日挙げた二点を崩さないような診療を保っています。その効果は出ていると思います。ゾンビタウンの光景はショッキングではあります。それを受けて自分にできることは、薬については枠を壊さない診療を守って行くことだと思いました。是非参考にしてみてください。今回は以上です。

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