堤ヶ岡メンタルクリニック

堤ヶ岡メンタルクリニック うつ病の再発防止に力をいれている精神科、心療内科のクリニックです。

 当院は完全予約制の精神科、心療内科のクリニックです。完全予約制としましたのは患者さんの一人一人と落ち着いて話し合いを持ちたいからです。
 薬物療法の進歩で急性期の精神科疾患は非常に治りやすくなっています。しかし維持期や再発防止のことを考えると薬物療法だけでは心もとないです。そこで何らかの精神療法との併用が必要です。とくにうつ病をについては安定期の認知行動療法が再発防止に効果があることがわかっています。私は精神療法のエッセンスはアドヒアランス(患者さんが治療に参加していること)の維持にあると考えています。それには患者さんと時間と場所を決めて定期的にどっしりとあっていくことがどうしても必要だと考えるようになりました。完全予約制ということでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、以上の理由がありますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
 もちろん通院されている方の予約外の診療には対応いたしますが、電話連絡をしていただきたいのとある程度待っていただくことはご容赦ください。

12/08/2025

<いきものハッピータイム>
精神科医を長くやっていて<ヒト>というのはとことん<悩むことを宿命としている生き物>だな考えるようになりました。火のないところに煙は立たずということわざがありますが、なんの問題もないところから煙を産み出しているような話もよく聞きます。他人から見ると滑稽なくらいに見えますが、当人たちは大騒ぎです。精神療法では本人たちの視点と他人の視点の両方をバランスよくもちながらケースに関わることが必要になります。また事態は複雑であって、何も問題がないように見えても実はその深層には分裂を抱えていることにも気がつくことも多い。そんな日常診療でよく出会う分裂の一つが<首から上の生活>と<首から下の生活>の分裂です。皆さんは人間は動物とは違うと自信を持って主張すると思いますが、首から下については他の哺乳類と大した違いはありません。人間は頭こそが人間の本体だと勘違いしてしまいます。小説「宇宙戦争」に出てくる頭が風船のように膨らんで細い触手をもついわゆるタコ型宇宙人のデザインは、本来は進化した未来の人間を想像して作られたデザインでした。映画「マトリックス」では人類は仮想空間内で複雑な社会を形成しながらも真実は培養液槽に閉じ込められていて肉体は機能していませんでした。こういった発想の背景には身体性の軽視が根深くあると思います。
 話を戻しますと頭と体の分裂は、精神科においてはコントロール(頭)できない、身体症状(体)という形で持ち込まれることあります。こういうとき、はじめはなんとかコントロールできないかという視点でがんばります。それでうまくいくこともあるのですが、前述の通りバランスをとるというのが精神科の持ち味なので「体(症状)のメッセージは何でしょう。」や「大型犬を一匹、幸せに飼える生活を想像しましょう」など持ちかけてみます。ここでは犬を例にあげましたが、なにもペットショップに行く必要はありません。大型犬というのは首から下のあなた、動物としてのあなたのことです。大型犬が暖炉の前であくびをする姿を見るとほっこり癒やされるのに自分が食後あくびをするとき、どれだけその体験を味わえているでしょうか?すぐに周りを取り繕おうとしていませんか?
 ペットショップに行く必要はないと言いましたが、この話がでたあと実際に犬を飼い始めた方がいます。この方は診察のときに、「首から上の話は・・」と会社の話を、「首から下の話は・・」と犬との生活の話を始めます。犬の散歩のときに出会った早朝の体験を情感たっぷりに語ることがあり、印象に残りました。首から下の生活を楽しんでいることを確信しました。
 別のある方と日中の眠気について話をしていたときです。昼食後の眠気を気にされていました。私は「お腹も満たされて、安全も感じられて眠くなるのは当然のことですよ いきものハッピータイムです」と伝えました。アイマスクをして15分程度、ハッピータイムを味わう、(午睡ともいう)を提案させてもらいました。もちろん減薬も合わせて選択肢にあげましたが、いきものハッピータイムという言葉がおもしろかったようで、昼休みの過ごし方としてこちらを採用してくれることになりました。頭中心から体中心の視点を移すことで気が付かなかっただけですでにある豊かさを発見することができます。いきものハッピータイムは何も食後に限定ということはないでしょう。頭の想像を超えて、いきものハッピータイムに私達は囲まれているのかもしれません。ピントが合わないだけなのです。また難しいもので、いきもの生活ばっかりでしたら文明や発展はなかったでしょう。つくづく社会生活といきもの生活の両方をバランスとりながら生きていくのが<ヒト>の生き方、宿命みたいのものと感じています。今回は以上です。

25/07/2025

<自分を映す鏡>
 診療の中でクライアントさんが自分を見つめ直したいおっしゃることがあります。名言はされなくてもクライアントさんは状況を変えたいと思っているし、その道筋を見出したいと思っているのではないでしょうか?今回は自分を映す鏡というテーマでお話します。
 自分を見つめ直すという言葉を聞いたときに反省するという言葉を同時に連想した方も多いのではないでしょうか。反省は英語で言うとreflectionといいますがこれには反射という意味があります。<自分>を反射させたものを受け取る。<自分>を客観的に見て、それを元に考えるなどを反省といいます。決して倫理的に自分を追い詰めることでありません。追い詰めることはモチベーションや覚悟にはつながりますが、どのように変わっていくかの方向性には関係しません。もちろん自分を見つめ直そうというモチベーションは必要なのですが、過度に倫理や正義感を持ち出すのは危機感ばかり煽って成果を産まないのでやめておいたほうがいいでしょう。次に問題となるのは主観と客観の問題です。自分の視点を主観というのであるから、自分が客観または三人称視点をもつというのは、(言葉遊びになりますが)厳密には不可能です。せいぜいミックスとして捉えた主観を主観が強いところと比較的客観性の強い主観に分ける作業をするくらいが限界です。これは作業ですから上手い下手があるし、トレーニングが必要になります。ここまでが前知識になります。
 前にも書いたかと思いますが?精神科は他の診療科と比べて主観だよりの診療科です。客観的な指標が乏しいのです。チェックシートや質問紙が客観的かというと血液生化学検査やMRIとくらべたらお粗末なものと考えます。しかし自信を持って診療したいので、我々は自分自身を精度の良い<ものさし>とするべくトレーニングを積みます。これは精神療法家を目指すのであれば特に重要です。トレーニングとして一番有効なのは症例検討会に自分の受け持ちケースを持ち込み、複数の同業者に聞いてもらい意見をもらうことです。初心者の人の中にはケースを出すモチベーションが低い人もありますが、これは初学者のときのチャンスだし、倫理的な要請でもあるのでぜひ取り組んでもらいたいです。次点としては自分が精神分析を受ける方法です。これはつよいモチベーションが必要なので一般向けではないかもしれません。もし受けるのであればユング派の精神分析をおすすめします(主観っ!!)
 ここまで自分を映す鏡というテーマで話をしてきました。すでにお気づきかもしれませんが<自分>を見つめ直すには<他人>が必要なのです。全身鏡の前に姿を晒すことに若干の抵抗を感じる人は多いでしょう。それが他人となると更に勇気が必要です。他人と大きく捉えましたが誰でもいいわけではありません。これは皆さんすぐ想像できると思います。安全な鏡としての他人はトレーニングを積んだ精神療法家が適任かと思います。スタートしては療法家との対話を通して気づきを得ていけば良いでしょう。急性期がすぎると次の段階として自分一人でもreflectionができるようにスキルを身につけていきたくなるものだと思います。その方法としては日記、夢の記録、自由画をおすすめしています。今回は親しみやすそうという点で日記の方法を説明します。まず上記の3つの方法は<書く>ことが共通しており、このことが非常に重要です。どういうわけかクライアントさんは書くことを避ける傾向があるので、日記はまず書くだけでもなんとか継続してもらって<書く>を定着させることを目指します。これだけでもクライアントさんはいろいろな気づきを報告してくれるようになります。これだけでも十分ですが、先へ進むには頃合いを見て日記の書き方の指導をしていきます。ポイントは①出来事と②それについてどう捉えたかを分けて書くということです。①は客観的な視点を鍛えます。②は認知とも言いますがこれが決まると行動が決まります。出来事と認知を分けて書く方法は日本語の文章としてはぎこちないものになりますが、自分を映す鏡をしては十分なツールだと思います。書きとられた②認知のパターンは自分の性格そのものと言ってもいいほどのクセが表現されているので、少しの気恥ずかしさをともないながら自分を知ることができるでしょう。こうして得た三人称視点(もどき)はあなたがたが社会の中で出会うあらゆる問題に対して有効な道しるべ示してくれると思われます。今回は以上です。

18/07/2025

<ゾンビタウン>
 フェンタニルの日本からの密輸が問題になり、アメリカでのフェンタニル中毒の街、ゾンビタウンの動画を見ました。衝撃を受けました。前かがみで立ったまま固まっていて、人目もはばからず手には注射器を持っている人たちが写っていました。まさしくゾンビタウンで映画のセットのようでした。世界で一番裕福で文明的なはずのアメリカの街の様子とはとても思えませんでした。日本では手術用のフェンタニルが品薄状態で日本には回ってこないでどんどんアメリカに流れているという話は聞いていました(もちろん密輸のルートではない)プラス密輸ということだと思うのですが、第二のアヘン戦争という言葉を聞き、人間のそこの見えない悪意を感じました。フェンタニルはとても重要な疼痛管理における薬物と聞いています。薬物中毒は薬物自体の問題というよりは使い方の問題といいます。薬物自体は道具なので道具の使い方が問題というわけです。わたしはフェンタニル自体は馴染みはありませんが向精神薬という依存の危険のある道具を扱う以上、安全な使い方を心がけないといけません。今回は向精神薬の安全な使い方について二点を話していきたいと思います。
 <目的をはっきりさせる>道具のであることを考えれば当然ですが、どうして薬を飲んでいるかの目的をはっきりさせることが必要です。医学では主訴をはっきりさせるといいます。疼痛の目的、睡眠の改善、めまいや慢性刺激との距離感を取るため色々考えられます。向精神薬はほぼどんな場合でも役に立つ使い方ができます。だからこそ使用の目的が曖昧になります。精神科医の方の場合は担当の患者さんのはじめのカルテを見直してみるいいと思います。みなおしてみると初診のときの悩みは随分解決していることに気がつくのではないでしょうか。この傾向は心因の場合は特に顕著です。めまいを主訴に来院された方ですが、最近はめまいの話は話題に上がりません。特別な心境の変化が報告されたわけでもありません。心因は本人と環境との間に原因があるので、状況は常に変化しています。それに反映して表面的な症状は割と変化しやすいです。ですからどうして薬を飲むようになったかを考えてもらえると今、それが必要かをつねに考えるようになってきます。医師と相談して服薬の継続について話し合うといいでしょう。
 <医者と一緒に決める>中毒または依存症の方は一人で決めるということを手放そうとしない。こういう傾向があります。自分でやめられるとか決められるとかおっしゃります。結果的にはやめることはできませんがそれでも自分でやめられるという考えを手放したがりません。これは依存症治療を難しくする割と核心的な問題だと考えています。心理学者のカール・ユングはこれについて「患者は(自分でコントールできるという考えを)絶望する必要がある」といっています。インパクトのある言葉ですが、絶望するからこそつながれるものがある。それが徹底的に治療に必要だと言うようなことをあとに続けています。わたしはこの考えは仏教において親鸞の「他力」の考えにつながるように感じています。依存症治療は宗教性を扱うことが多くなるのも無理からぬことだと思います。話は大げさになりましたが、ややこしい依存になる前に手を打とうというお話です。そのためにおすすめしたいのは、薬は医者が管理する。手持ちを作らないということです。小児科のママさん文化かと思ったりしますが薬を手持ちで持っていたいという希望をする方は割といらっしゃいます。他科のことはわかりませんが、向精神薬の頓用という使用法は薬物依存になるリスクをとても上げます。ですので慎重になるべきです。自分に対して客観的になるということは言葉遊びを抜きにしても不可能です。したがっていずれは乱用になるでしょう。ここで自分では乱用と思わないことが悲劇的です。以前<わたしの減薬戦略>でも話しましたが定期的に通院してもらうこと。つまり薬が切れたので来ましたというような診療の設定は避けることも<医者と一緒に決める>ということに含まれています。
 薬自体はいいも悪いもなくただの道具ですから悪いのは使い方になります。わたしは今日挙げた二点を崩さないような診療を保っています。その効果は出ていると思います。ゾンビタウンの光景はショッキングではあります。それを受けて自分にできることは、薬については枠を壊さない診療を守って行くことだと思いました。是非参考にしてみてください。今回は以上です。

11/07/2025

<悪ふざけはたのしい>
日曜日の出来事です。猛暑であったのでビニールのプールを出すことにしました。プールといっても流石に狭いので、浸かるというよりは水遊びをしようということになりました。うちにはこういう場合に備えて金魚すくいで使うポイが買ってあって、それをヘアバンドで各々頭につけ、水鉄砲で撃ち合うという遊びをすることになりました。わたしは、ほんの思いつきでポイに元からついている紙を外し、丁寧に切り抜いたキッチンペーパーと入れ替え、ヘアバンドにセットしました。子供3人とわたしの水鉄砲戦いが始まると、予想はしていましたがお父さんの無双状態になりました。流石に異変に気付いた長男に追求されたので、仕掛けを白状すると子どもたちの目がキラキラ輝き始め、そこからポイの改良競争が始まりました。ポイを重ねる。裏にセロファンテープをはる。オリーブオイルを塗って乾かすなど。。自分の考えた最強ポイを頭につけての激しい水鉄砲戦いを行いました。優勝は長女の「レジン塗布ポイ」で、これには参りました。わたしのキッチンペーパーポイも最強だったのですが、枠に貼っている木工ボンドが水で溶けてしまい敗れました。楽しい日曜日でした。
<トリックスター>神話やおとぎ話にでてくるいたずら者をトリックスターと呼びます。ユング心理学ではトリックスターはこころの中の住人と考え、現代社会においても陰になり陽になり活躍しているという見方をしています。トリックスターの性質としては固定した、動きのない状況をいたずらのようなやり方でかき回すことです。この動きがうまいこと働くと創造性につながりヒーローになります。しかしルールを乱したということが強調されると途端に悪者にされてしまいます。トリックスターの創造性と破壊性は紙一重の違いです。今回のわたしのポイの不正も「ずるいパパとは遊ばない」という結末になっていたかもしれません。集団の中でトリックスター性を(無自覚に)発揮したために、職場や家族内で悪者にされてしまっているという方は少なくありません。トリックスターは厄介者ではあるのですが、硬直した状況を変えるべく最初に立ち上がってくる機能でもあります。精神療法に相談にこられる方は状況を硬直して動かしがたいものと捉えている事がほとんどです。そういった人としばらくあっていると、トリックスターが動きを見せるときがあります。トリックスターの動きをいち早く捕まえて生活に反映することが精神療法家の腕の見せ所でありましょう。
 さてトリックスターを創造性の方に活躍させるにはいくつかポイントがあります。わたしが重要視しているのは2つあって、一つはユーモアです。トリックや騙し、不正を包む役割です。ユーモアもユーモアセンスと言われるくらいセンスが問われます。なかなかに難題です。感情機能が関わってくるように思いますが、感情機能については紙面が限られているのでここでの説明は省きます。もう一つは「遊び」の雰囲気です。遊びはトリックスターを呼び込む設定として優秀です。では「遊び」が成立するには?これは実のところ精神療法が成立する条件と非常に関連があります。これはわたしの非常に関心のある話題ですが、これも今回は説明を省きます。宿題にさせてもらってそのうち書くと思いますのでお待ち下さい。さて自分の心のなかに住むトリックスターをうまく活躍させるにはトリックスターとの距離感が大事です。トリックスターに乗り移られた様になっては面白くありません。今回のプールの件で言えば、仕込みのポイを思いつき実行し、子どもたちのトリックスターに火がついたところで自分は静観にまわり、木工ボンドが溶けたところで潔く引いて行く。こんな距離感がわたしの好きなトリックスターとの関わり方です。ほんの一例ですが参考にしてみてください。今回は破壊か創造か心の中の道化師、トリックスターのお話でした。今回は以上です。

04/07/2025

<藤野園を惜しむ>
私が往診に行っていた施設に藤野園といういわゆる老人ホームがあります。その老人ホームが6月いっぱいで閉園になりました。時代の流れもあり仕方ないことですが思い出もあり書いてみたいと思います。藤野園さんは特殊な老人ホームで行政処置により入所が決まる老人ホームです。本人または家族が希望して入るタイプの老人ホームではありません。大抵は保護されるような形で入所になります。そういう人の中で精神科医療の対象になりそうなケースがあると相談が来て、私が診察・治療という流れになっていました。入所の経緯が経緯なので皆さん社会的に孤立した方が多く、そういった人生を長く過ごしていると穏やかに過ごすということがイメージしづらくなってきます。こういう理由があるので一般的には落ち着かないケースが多いのです。しかし難しいケースが多いにも関わらず藤野園からのご紹介のケースは比較的速やかに問題が解決するケースが多かったです。(解決は言いすぎかもしれません。介護範囲に収まってくるというくらいです。)薬物療法への反応がすなおで計画が立てやすかったです。もちろん病気が認知症なら進行していくのですが、いわゆる周辺症状というのが派手にならない印象でした。特筆すべき特徴として、皆さん(圧倒的にといってもいいくらい)長生きでした。薬物療法の反応の良さ、または認知症の周辺症状の程度は患者さん側の要因が大きいです。言い直すと薬への反応は薬の性質と本人の状態の相互作用だし、周辺症状は本人の中核症状と周りの環境の相互作用の結果です。短く言うと藤野園さんは利用者さんが安心して過ごせる「生活の場」を提供できていたのだと思います。これからの高齢者予備軍(もちろん私も含まれます)の人たちは最終的な「生活の場」はどこになるのか、はっきりとイメージできないでいます。また行政もイメージを提供できていないと思います。決まっていないからこそ個別に悩むことになります。「わたしは将来どこで暮らすことになるのか?」というのは漫然を広くみなさんが抱えている心配事だと思います。藤野園さんの経験から最終的な「楽しく暮らせる生活の場」のノウハウ、もしくはテクニックが他の施設にも浸透していけばいいと思っています。
 藤野園さんはその歴史の積み重ねもあって利用者さんが安心して暮らせる状況を提供できていたようです。藤野園さんからの診察の依頼は一見厄介なケースのように見えて、とりかかってみると素直な経過で、急性の状況をあっさり抜けるので私としては楽ができるケースが多かったです。そういった意味で10年以上かかわらせてもらって感謝しています。ここで得た経験を活かしてこれからも施設臨床の工夫を続けていきたいと思います。藤野園さん、長い間お疲れさまでした。また職員のみなさま、次の職場でもこの業界であるかぎりは良質な経験を積んでいると思いますので自信を持ってお勤めください。今回は以上です。

27/06/2025

<AIと精神療法>
私には2人の精神科仲間がいます。特に決まりはありませんが誰かが声を上げて、時々食事会が開かれます。お酒も飲まないし、割と締めにスイーツを堪能するので奥さんからは「女子会」と呼ばれています。いい歳したおっさんの集まりで、話題も「精神科」の話ばかり、、華がないですね。その女子会での出来事。
A氏「最近、自閉症圏の(パーソナリティを持った)人がAIチャットに癒やしを求めるケースが印象に残ったのだけどどう思う。俺とかがなにか言っても反発するのにAIチャットだとスーッと受け入れていくみたい。俺達の仕事もAIに置き換わっていくのかしら」と話題が振られました。様々な職業が将来AIで事足りていくのではないかと最近よく話題になります。しばらくあれやこれやと話し合いました。
B氏「AIには体がない。同じ体を共有しているからこそセラピストの言葉にリアリティーがでてくるように思う。例えば私は100km走れる。その私が大変だけど走れますよといったときと、AIがあなた運動不足だから運動しましょうと返してきたとき、やっぱり違うと思う」
私はB氏の言葉が刺さって、そのとおりだなと思いました。精神療法の大事な要素に共感ということがあります。共感の定義は「他者の感情体験を理解し、かつ追体験すること」でありますがポイントの「追体験」は相手の感情生活を<追い>はするもののスタートラインはあくまで自分の<体験>がベースになっているということ、これが非常に重要です。話は横道にそれますが10年以上前のある講座で「相手の話に共感するときに自分の体験も意識しておくことが、安全に共感するためのコツ」という話を聞きました。例えば母子関係が語られている場でセラピスト自身の母子関係も意識に上げておくというようなことです。<追い>はするもののスタートラインはあくまで自分の<体験>がベースということを強調されているのだと思います。
 話を戻しますが、B氏の言いたいことも共通していると思います。逆を言えば自分が<体験>していないことをクライアントに勧めているのであればAIでも構わないということになります。生活習慣病的な(外見の)医者が「あなたには運動が必要です」というときは返ってAIのほうがマシということになるでしょう。最後のは悪ふざけですが、心には投影という機能があって「人のふり見て我が身を直せ」というのは心の世界ではよく出会う現象です。
 B氏の見解に私はすごく納得したのですが、次に考えたのは<体を共有したモノ同士でないと変化は生じないのか?>ということです。たしかに精神療法において重要である共感は人間同士でないと成立しません。ではペットは?犬や猫に癒やされるといいますし、ただの愛玩という枠以上の精神療法的な効果も聞かれます。では哺乳類だったらいいの?ワンちゃんたちは追体験してくれているの?そもそも精神療法は悩みの解消を目指すものですが、仏教において悩みの究極の解消である「悟り」はお堂で坐禅をくんで得られたり、時に雷の音で悟ったりと無生物との関係でそこに至っているケースが割と多いように思います。悟りなんて大げさにしなくて、私の診療所でも「家に帰ってもう一度考えて・・・」なんて心境の変化を話してくれるケースは多いのです。だとするとAIでだめな理由はなくなるか・・こんなことを考えていました。
 これに似た議論は昔あって、私が留学していた頃、テレビ電話での心理面接が話題になっていました。ルールとしては解禁する方向だったけどもテレビ電話で心理面接のダイナミズムが出せるのか(出せないだろう)といった冷ややかな周りの見解が多数だったことを覚えています。しかしいまとなっては普通のことのようです。AIの精神療法ですが、はたして将来我々の仕事を奪うことになるのか?技術の進歩を楽しみに待ちたいと思います。以上です。
<告知>
私の奥さんが私の記事を読みやすい形で編集し動画投稿したいということで、ユーチューブで投稿を始めました。もしよかったらチェックしてみてください。堤ケ岡メンタルクリニックで検索をおねがいします。

20/06/2025

<認知症の診療でおもうこと>
認知症は大きな社会問題であり、したがって診療の機会が増えています。実際の診療の中で気がついたことを書いてみたいと思います。
<その体験、物忘れで正しいですか?>
認知症という言葉をきいて何を連想しますかと聞くと物忘れの病気ですよねと言われると思います。たしかにそうなのですが、当事者の体験をベースに考えると、私は昔から「あわないなー」と感じています。先日、物忘れを気にされて相談に見えた方がいました。長谷川式の認知症テストをしてもらったところ数字の逆唱に特徴的な問題がでていました。これだと短期記憶の障害が特徴的なので以下のような説明をしました。「いわゆる物忘れというよりは、例えば武道などで打たれまいと構えているのにすっとスキをつかれて打たれてしまうとか、手品で見逃さないようによく見ているのにいつの間にかすり替わっているとか、そんな感じ方、体験が増えてきているように思いますがいかがですか。」するとその方は膝を叩いて「まったくそのとおりだ!」とおっしゃいました。周りが物忘れというがどうもしっくりこない。渋々認めるのだけど面白くない。スキをつかれたとか手品をかけられたようなというのは全くそのとおりと思うとのことでした。
 周りからみたら物忘れのエピソードでも当事者の体験としては手品にかけられたという方がピッタリのことがあります。両者の違いは当事者の中では大きいです。例を上げますと「自分は物忘れをした」という認知だと気持ちは自分に向きます。続いて起こる感情は「悲しさ」が自然でしょう。「自分は手品(トリック)にかけられた」だと気持ちは自分には向かず外に向いていきます。「驚き→怒り」が自然と思います。また、周りは物忘れとみていることもわかりますから、認識のズレに孤独を感じます。こういう経験が潜在的にあるともっと認知症が進行したときに「物盗られ妄想」に発展しそうなことは容易に想像がつきます。認知症は病識を持つことが難しい疾患ではありますが、その初期においては「物忘れ」という説明より、「スキが増える、手品にかかったよう」といった説明のほうが患者さんの体験にマッチするように思います。このことは病識の形成と治療への自主的な参加につながるように思っています。私の小さな気づきではありますがなかなか本を開いても似たようなことがでてこないのでご紹介しました。今回は以上です。

13/06/2025

<ドラえもんはのび太をだめにする?>
高校の時のディベート大会で上記のお題がありました。自分のクラスがイエス側かノー側どっちで戦ったかは覚えていないのですが、卒後暫く経つのに時々思い出すのは秀逸なお題だからだと思います。ドラえもんは言うまでもなく名作だと思いますが、最近の子どもたちは読んでないのでしょうか?我が家は幸運なことに一番下の子どもがドラえもんにハマりまして、ちびちびと集めております。作者の藤子不二雄先生は「古今東西あらゆる物語のパターンを描いてぺんぺん草も生えないくらい書ききる」とおっしゃっていたとのことで物語、人の語りを聞く職業である精神科医としては大変興味がある漫画であります。そういう事情で割とリビングで読んだりします。その時の私の読み方なのですが、表題にある「ドラえもんはのび太をだめにする」のドラえもんを精神科医にのび太を患者さんに置き換えて「精神科医は患者をだめにする?」という視点でドラえもん読むと大変興味深く読むことができます。
 <パターン1>これはのび太またはひみつ道具の暴走、誤用で失敗するケースです。一番多いパターンと思います。このパターンの特徴は便利な道具の紹介のあとドラえもんが不在になります。その後のび太と道具だけで話が展開します。これを精神科医ー患者関係になぞらえますと患者さんは精神科医に便利な道具をねがって医師はそれを与えます。その後ふっと不在になります。存在が希薄になります。このことは精神科医と患者さんの間に適切な人間関係(治療関係)が作られなかったことを示していると思います。患者さんからみて、先生は薬や診断書は書いてくれるけど、どういう人なのだろうとかどういう考え方を持っている人だろうなどのキャライメージが乏しいケースが当てはまるのだと思います。
 <パターン2>このパターンは秘密道具によって困ったことも起こりますが、パターン1にくらべてほっこりとしたエンドになるパターンです。このパターンでは道具の紹介のあとドラえもんの不在が起こりません。たいてい一緒に遊ぶ流れになります。道具を介してドラえもん以外の登場人物とも交流がひろがります。(はじめしずかちゃん、のちにスネヲとジャイアンなど)パターン1との比較になりますと精神科医ー患者に人間関係が生まれていると解釈できます。私は診療室で行われる心理療法と遊びは非常に示唆に富む関連があると思っています。遊戯療法というものもありますし、イギリスの精神医学者のウィニコットは「私の診療は、私の遊びとクライアントの遊びを重ねることだ」という言葉を残しています。私はウィニコットを大変尊敬しています。精神科医との遊びのような対話交流をとおして人間関係が広がっていくというような展開をパターン2ではイメージできます。このときひみつ道具は非日常の世界(魔法の世界)を支える役割になっています。
 <パターン3>最後のパターンです。このパターンではのび太はこれまでの自分の在りようから大きく飛躍します。例を上げると100点を取る。ジャイアンに逆らうなどです。我々の視点では成長と言っていいでしょう。このパターンに特徴的なのは面白いことに道具の拒否ということが大変重要な転機をになっています。「コンピューターペンシルをテストに使わない」など。ユング心理学では昔話の分析や解釈を考えたりしますが、しばしば「魔法を手放す」ということがそれぞれの昔話において重要な成長の要素であることがあります。例を上げると「小人の靴屋」が挙がります。小人は去ってしまって今後は自分たちの手で靴を作らないといけないという結末です。このときのドラえもんの存在はどうでしょうか?だいたい不在です。しかしパターン1との違いは、のび太はこころの中でドラえもんと対話している。ドラえもんは心のなかにいる、こういう事が起こっています。これを専門的には内在化といったりします。<治療者の内在化>これは私のやっている心理療法でえられる最大のメリットと思います。患者さんから「先生ならこう考えるかと思ってなんとかやってきました」と報告を受けることがあります。内在化ができてきているかも知れません。治療者の内在化が正しく起こるとケースは急速に展開します。つまりパターン3では「魔法を手放す」「治療者の内在化」「クライアントの成長」が描かれていると思います。これは患者さんの診察の卒業まで考えるときとても重要なポイントだと思います。
 今回はドラえもんを題材に精神科臨床で起こることを考えてみました。藤子不二雄先生はほんとにすごい作家さんだと思います。今回は以上です。

06/06/2025

<炭に火をつける>
最近、他院からの患者さんに触れる機会が増えています。ある方なのですが、薬をもらっていて眠れている。問題はないんだけど。。(問題がある)というような話をされました。薬の話をされましたのでお薬手帳を拝見しました。結構な量の薬を飲んでいました。その時私の脳裏にひらめきがあって、それをそのまま患者さんにお話するのが良いか、すこし吟味したうえで話すことにしました。「BBQのときに炭起こしをしますが、私のあなたの印象はその着火剤がだけが燃えていて炭自体に火がついていない。あなた自体に火が入っていないそんな印象を受けます」とそう伝えました。その患者さんは「そうなんです!」と少し興奮して答えました。それからどうしたら炭に火が付くのか少し議論して目標を作ってその日は終いました。このケースは終日印象に残ったので時間を取って色々考えてみました。まず連想したのは着火剤が燃えていることで良しとしてBBQをはじめちゃっているケースが相当な数いるのではないだろうかという想像です。今回の人は炭が燃えていない、<自分>が変わっていないということに気が付き、なんとか伝えようとしてくれましたが、自分でもおっしゃるとおり客観的には眠れているし、日常の生活での問題も少ないわけです。相当数の人が炭のことなんて気にかけていない現実があると思われました。次に考えるのはどうしたら本人に変化が生まれるのか、この話で言えばどうすれば炭が起きるのかです。直感的には薬がおおいから、その影響が強いことが炭自体が燃えるのを邪魔をしているのであろうと思いつきました。このことは先の患者さんとは話し合いました。理解は得られたので減薬の提案もしましたが、その覚悟は決まらず処方は継続になりました。長期に服薬していると薬から離れることに抵抗が生じるケースが多いです。
 このイメージについてもう少し考えたかったので家族に提案して日曜日BBQをすることにしました。もちろん炭起こし体験するためです。イメージを理解するには知的な作業の他に体を動かすことが大きな洞察につながることを体験的に知っているからです。それで体験したことですが炭に火を付けるにはものすごい量の息を<炭に向かって>送る必要があるということです。それこそクラクラするくらい必要です。ここで重要なのは決しって着火剤に向かってや表面的な炎に向かって息を送るのではないということです。ここまで進めてから私の興味のある精神科診療に置き換えてみると<炭>とは患者さんの魂と言えるだろうと思うのです。<魂>がユング派ぽい飛躍と思われるなら患者さんの人生ともいえるでしょう。そこに向かっての言葉を診療の中でどれだけ送っているだろうかと考えました。具体的には「どのようなことを心がけて生活されてますか」「あなたなりのコツってなんでしょう」「次回の診療までの間ではじめてみようと思うことがありますか」など挙げればきりがないですが患者さんの魂に向けた言葉をかけていく、また取り上げていく事が重要だと思いました。もちろん散々上げていますが、モチベーションの問題もあってしつこく息を吹くだけでは炭は起こりません。タイミングが大事です。ただ私は<炭にちゃんと火が付く>ことをいつも意識している診療をすることを誓います。印象に残るセッションでした。今回は以上です。

30/05/2025

<子どもの診療、2つの選択肢>
当院では特に制限をしていないので子どもの相談を受けることがあります。子どもさんの問題が内因である、もしくは心因だけどもその子に自分の社会的な問題に取り組む意志がある場合にはその子自身が私の患者さんになります。ややこしい言い方になりますが問題の当事者になれる力というのが必要です。大人と子どもの違いは年齢ということになっていますが、私の経験ではこの当事者になれる力というのを年齢でわけると大きくバラツキがあります。小学生でも私と向き合って話をして(おそらく対人関係上の)課題をクリアしていく方もいましたし、高校生であっても自身の問題に無関心、そもそも受診の主体が本人でない場合も多く、その幅が大きいわけです。前者の場合は簡単で幼いところをこちらで補って実現可能な課題を作っていったり、対話以外のより表現しやすい絵画などを使って共感・勇気づけをおこなっていくことでケースは展開していきます。後者の場合はセオリー的には来院したこと自体を評価するというのを根気よく返していくというのがあります。この繰り返しは一見すると無意味なので通院の主体になっている親のほうがしんどくなってしまって中断してしまう事が多いです。もう一つの王道はその場でモチベーションが一番高い人が患者になるという選択肢があります。子どもではなく親の心理療法を行うということです。ユング心理学をつくったカール・グスタフ・ユングは子どもは親の付属物という考えで子どもの分析はしなかったそうです。親の付属物という表現は(訳語ですが)昨今反感を買いそうですが、本人の意志もしっかり確かめず、「ほら、先生にすべてお話して!」と連れてくるケースなどは無自覚的なだけで<親の付属物>という表現もあながち行き過ぎではないかもしれません。
 家族というのは非常に複雑な相互な作用をしていて、一番モチベーションがある人が当事者になることによって家族のシステムが変わっていく→仮の当事者である子どもも変化していくということが十分に考えられるのです。(家族療法)そういうわけですので当院では相談に来られたメンバーの中でもっともモチベエーションの高い方の心理療法をおすすめしております。こういうふうにお話をしていますと、いかにケースの当事者になるということが大変かを痛感します。というのもあれほど熱心だった親御さんが自分がケースの当事者になるという話をされると途端にモチベーションが縮んでしまって消極的になるということがよくあるからです。つまりこれは仮のモチベーションで、自分はケースの外側にいて、自分はそれに含まれていない。そういう状況でのモチベーション(仮)なのです。これが自分が当事者になるとすると条件が変わってしまう。これは人情としてよく分かるし、そういう態度の方を非難する気持ちもありません。ただケースを自分を含めて考える、当事者になるということがいかに<力>のいることなのかということをあらためて感じます。よく考えると子どもさんたちは相当<力>をつかって不登校などをやっておられるのではないかと想像したりします。通常ですと症状をもっている人が最もモチベーションをもっているのでもっとシンプルに治療の導入ができます。しかし子どもの診療のケースが代表ですが、問題(仮)を出している人とモチベーション(仮)が高い人が一致しないケースは治療の導入が難しいです。私としては丁寧に説明してモチベーションの高い人に心理療法に参加するように話していますが、なかなかうまくいかないです。いつも悩んでおります。以上です。

23/05/2025

<ビブリオセラピー>
ビブリオセラピーというのをご存知でしょうか?患者さんの話を聞いて、その局面に参考になりそうな本を紹介するという介入の方法です。心理療法に入ると思います。利点としては患者さんへの侵襲が少ないこと。本を紹介するだけですので。それと患者さんのモチベーションの確認にもなります。何回か書いている通り、心因の治療のターゲットは患者さんと社会の間にあります。よほどのことがない限り治療の原動力は患者さんのモチベーションなのでモチベーションを知ることは今後の展開を予想する上で大切な情報です。紹介した本を読んできてその内容を話し合うというような診療になるとしばらくはトントン拍子にすすむし外的な心因の内容も変化が現れるでしょう。反対に前回の内容が全くのスルーで症状の話に終始するようであれば、まだまだ本体の治療には入ってはいかない事がわかります。
 話は遠回りになりましたが、今回は私がビブリオセラピーとして紹介することの多い本をあげ、その解説をしようと思います。よく紹介するのは「嫌われる勇気」です。この作品は「アルフレッドアドラーの心理学」の紹介書です。この本の特徴としては二人の人物の対話で進んで行く形式になっていることです。ふたりの人物の対話になっていることで、読み手は2種類の視点を行ったり来たりすることができます。どちらでも好きな方に感情移入できるということです。私は心理学系の本を読むとき、自問自答しながら進むので非常にゆっくりです。しばらく考え込んで1ページしか読んでないこともざらにあります。この自問自答を二人の人物が代弁してくれるのでおまかせできるというか、非常にテンポよく読み進めることができます。そういった点で患者さんに勧めやすいです。またアドラーはすべての問題は人間関係であると言い切るだけあって人間関係に非常に優れた洞察を残した方です。クリニックに相談にみえる方の多くは人間関係の話なので紹介しやすいです。私個人としてはすべてが人間関係という主張には異議もあって、だからこそユング心理学のほうが馴染むのですが、よくよんでみるとそんなに大きい差はないです。
 ビブリオセラピーで嫌われる勇気を紹介するとき、患者さんに一番届いてほしいのは「タスクの切り分け」です。自分のタスクと他者のタスクの区別をはっきりさせるというような意味です。アドラーの考察ですが、人間関係でトラブルが生じるパターンは相手のタスクに越境して口を出す&自分のタスクに越境して口を出されるというのが重なって起こってくると考えれます。そういう視点で自身の経験を振り返ってみると納得する部分があるのではないでしょうか?本の中で挙げられている例ですが馬飼いの例え話があります。馬飼いが馬を水辺に連れて行くことまでは馬飼いのタスクだが、馬が自ら首を突っ込んで水を飲むかどうかは馬のタスクというかんがえです。他者のタスクについては「放っておけばいい」ということです。不登校のケースなどある程度生徒が大きいのであればこういう助言がマッチしそうな場面はたくさん出会います。一方でドライすぎないか?冷たいなど感想も上がってきそうです。この本の良いところは登場人物二人の視点のどちらかが読者の視点を代弁してくれているところです。本来新しい考え方にあたったとき自問自答しながら理解する、咀嚼するということが必要ですがこの本では擬似的に二人の登場人物の寸劇で読者の動揺が補完されています。だからテンポよく読めます。結論からいいますと現代の日本社会において「タスクの切り分け」の考え方は非常に有効です。外来でも嫌われる勇気を読んでもらった方ではタスクの切り分けを合言葉に日常の振り返りをしているケースが多いです。合言葉になるくらい意識してもらえると私の方で介入することはほとんどないし、対症療法的な投薬も必要なくなります。患者さんの成長を感じられる診療というのは気持ちの良いものです。もし興味を持たれましたら嫌われる勇気を読んでみてください。以上です。

09/05/2025

<君たちはどう生きるか>
宮崎駿監督の映画ですが、皆さんご存知でしょうか?先日のGWにテレビ初公開となりました。私はこの作品にとても感銘を受けていて、映画館でみました。ジブリの映画は割と好きで久しぶりの作品でしたので割とミーハーな感じで見に行ったのですが、すごく感銘を受けたのでブルーレイディスクも購入しています。どういう点で感銘を受けたかというと映画で描かれるイメージ、シンボルの迫力が「これは本物だ」と思わされるものだったからです。ユング心理学ではイメージ、シンボルと言ったもの大事にします。イメージ、シンボルといったものは特有の迫力があり、いわば命を持っていてそれ故にある程度の自律性を持っています。村上春樹のインタビューにおいて登場人物をしっかり作ってあとはキャラクターたちが勝手に進めていくと言うようなことを彼の物語の作り方について語っているのを見たことがあります。ユング派では能動的想像(法?)というような一種の瞑想法があり、今回の「君たちはどう生きるか」はいわば宮崎監督の能動的想像、究極の個人情報じゃないかと思ったわけです。そういうものを開示しようとしたことについても(もちろん新作の物語としてですが)生み出した真摯な集中力についても尊敬の念を感じたわけです。それなのでブルーレイディスクも購入しました。シンボルは人を揺さぶる、惹きつけるので商業主義と結びつきやすい。それ故売れるノウハウとしても用いられることが多くなっています。〇〇の錬金術師とか呪術〇〇とか割と伝統的に秘匿されていたイメージに現代は簡単にアクセスできるようになっています。君たちはどう生きるかのイメージ・シンボルも売れるノウハウのかき集めではないかとはじめは疑ったのですが、どうも違う。本物だと判断しました。少なくとも私の力量ではそう思います。テレビでの公開をきっかけに映画の解説記事なども活発になってきて目につくようになってきました。難解だという声もありますが、絵画の鑑賞とかと同じなのでそれぞれが物語に開かれていって感じるところで楽しめはいいと思います。ただこの映画は見る人が物語に開かれることを躊躇させるような迫力があり、その点でも私はこの作品はすごいと思います。単なるエンタメではないですがぜひ見たほうがいいと思います。以下ネタバレ含みます。
<ネタバレ含みます>
テレビ公開されたのだから多少はネタバレしてもいいよねなんて考えています。見どころはたくさんあると思いますが、自分の印象に残ったところを取り上げて話題にしたいと思います。主人公の少年は鳥に導かれて塔に登ることになります。塔に登るという心の旅をとおして「どう生きていくか」というのが形になっていくそういうプロセスだと思います。ユング心理学では個性化の過程と言ったりします。道のイメージを背負うことが多いように思いますが、今回は塔のぼりと言うことになります。道だと水平方向の移動ですが塔だと垂直方向の移動ですから「高み」精神性、宗教性(特定の宗教ではなく)世界観、使命感・・が定まっていくということだと思います。塔についての考察ですが、ここではバベルの塔を引いておきます。バベルの塔のは物語では人は神に近づこうとして高い塔をたて、それが神の怒りに触れ塔が崩されます。(この作品でも塔は崩れます。)そして言葉が乱れて塔が建てられなくなるという話です。このお話は映画のクライマックスでなぜ塔が崩れたのかを考えるときに参考になると考えています。もう一つは天と地をつなぐ、あるいは支える柱(塔)のモチーフです。
 話をもとに戻すとまず塔を上に登る前に地下に落ちることから始まります。それも不意におとされるような形です。地下室は英語でbaseとかいいます。上ばかりみていてbase(土台)の重要さに気がついていない、そんなことを表しているようです。では地下の世界で主人公は何に出会うのか。まず死に出会います。人間は死を意識しないでいきる事はできない存在です。死にであったあとはその対となっている生について出会います。死が哲学的な描かれ方だったのに対して生は生臭くて、非常に生々しく描かれています。主人公が臓物に押し流されて気を失う場面は衝撃を受けました。最近動画などでグロ注意などタブがついていることがあります。グロは避けられるものというのが現在の感覚かもしれません。しかしこのbaseの世界では死ー食べるー生というつながりにおいてグロは引き受けるものとなっているようです。命の手触りを感じつつそれを食べて生をつなぐ。その営みにいつも悩み続けている。というのがシンプルな人間のbaseなのだろうと感じました。baseでの仕事を終えたあと、主人公は塔をのぼります。アオサギと人間関係ができたり、オウムの擬人化があったりいろいろポイントはあるでしょうがあまり興味を惹かなかったので飛ばしていきます。そもそも旅の目的は塔をのぼること(十分に実力をつけること)、そして塔の上にいる大叔父さんから塔を引き続くこと(世代交替、刷新)の2つになっています。この不思議な世代の交代はどう体験するかはともかく多くの人で起こっていることと思います。ユングにおいては幼少期の自分の中にNo1と呼ばれる人格とNo2と呼ばれる人格を2つ感じていたようです。No1はまさに大叔父のような深淵の知恵とつながっているような人物でNo2の方は年相応の弱々しいユング少年の人格を作っていました。外から見たユング少年の行動はこの2つの人格の折り合いの結果なのでした。この状況は長く続きましたが、ある日このNo1とよばれる人格の存在がNo2の後ろにさがってすっかり背景になってしまいNo2がユング少年の完全に主体になったという体験をしました。こういう記載をユングは自伝に残しています。ユング少年ほど明確に意識しなくてもこういう変化はみなさんも経験しています。しかも一度きりではなく何度もしていると思います。ものごころつくころや親離れ、初めて給料をもらった、自分のクリニックを持つなど、それぞれのタイミングで気持ちの変化を感じているはずです。主人公の少年が自分の塔をもつ、または大いなる使命を引き継ぐ、そういう目的に向かってこの物語は動いています。しかしこの試みは成功しません。映画では引き継ぎは失敗し塔が崩れることになります。私はこの展開に違和感がつよくて悩むことになります。解釈というか読みが違ったのかと考えを巡らせました。夢の分析などをつづけていくとこういうことに出会うことがあります。夢の展開に夢自我がうまく意図をくんで途中まで見事にある目的に向かっていく、もう少しで一つ到達したと言って良いんじゃないかという局面で失敗というか停滞してしまう。そういうことはよくあります。そういうとき、場合によっては夢の問題にかかりきりになって現実生活に影響が出ることもあります。塔の崩壊に際しての直感としては「これはただではすまないぞ」と思いましたそれはこの作品が単なる商品ではなくむき身の監督の分析にもなっていると判断していたからです、そうは思うのですがまるでこれが必然かのように物語は進んで行く・・はじめてみたのは映画館でしたがおかしいなあと首をかしげるかんじで出てきました。ただこれについては答え合わせがありました。映画公開後しばらくしてNHKが映画製作のドキュメントを放送していました。その番組では私とはまた違った切り口で監督の作品作りを記録していたのですが、例の塔の継承が失敗したシーンではしばらく筆が止まった様子が描かれていました。その様子に私はすごく納得しました。継承が失敗した原因ですが、いくつか思いつきます。ひとつめは主人公と大叔父はペアなので主人公に継承の準備が調っていたとしても大叔父さんのほうで手放すのに躊躇があった場合。2つ目ははじめの方に引き合いに出したバベルの塔のモチーフと関連します。塔が維持するという大いなる使命に少年は尻込みしてしまったように思われます。ここからは私の勝手な想像ですが、主人公の態度として「塔は世界を支えているような存在でしかもバランスが危うい(ちょっと意地悪な世界観だと思う)これを維持する大いなる使命に私はビビっています。とてもできません。」とバカ正直にいえたら大叔父さんも「大丈夫、見守っておるから好きにやってみなさい」となって継承はうまく行ったように思います。自分で作った傷を理由にしてその資格がないという返答がまずかったなあと思いました。主人公がもし夢分析のクライアントだったらそんなふうに見立てたと思います。
 いずれにしてもこの映画は心象風景を素晴らしい映像で表現し自分の物語を真摯に取り組んだ素晴らしい作品だと思います。長文お付き合いいただきありがとうございます。

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