堤ヶ岡メンタルクリニック

堤ヶ岡メンタルクリニック 心理療法に力を入れている精神科クリニックです。精神科医・公認心理師の立場からあなたのお悩みに見通しをつけるお手伝いをいたします。ちゃんとやめていける安全な薬物療法を心がけています。

 当院は完全予約制の精神科、心療内科のクリニックです。完全予約制としましたのは患者さんの一人一人と落ち着いて話し合いを持ちたいからです。
 薬物療法の進歩で急性期の精神科疾患は非常に治りやすくなっています。しかし維持期や再発防止のことを考えると薬物療法だけでは心もとないです。そこで何らかの精神療法との併用が必要です。とくにうつ病をについては安定期の認知行動療法が再発防止に効果があることがわかっています。私は精神療法のエッセンスはアドヒアランス(患者さんが治療に参加していること)の維持にあると考えています。それには患者さんと時間と場所を決めて定期的にどっしりとあっていくことがどうしても必要だと考えるようになりました。完全予約制ということでご迷惑をおかけすることもあると思いますが、以上の理由がありますので、ご理解のほどよろしくお願い申し上げます。
 もちろん通院されている方の予約外の診療には対応いたしますが、電話連絡をしていただきたいのとある程度待っていただくことはご容赦ください。

28/04/2026

<労働とボランティアと仕事>
 患者さんと話しているとそれぞれの人が自分のテーマに沿って心理的な仕事をしていることに気が付きます。これを社会の中の仕事と区別して、オプスと仮に名付けます。患者さんに説明するときは「課題」と言ったりもします。患者さんとの対話はカルテに残しています。そういう記録を俯瞰してみるとオプスが浮かび上がってきます。オプスはもちろん患者さん個人の課題なのですが一般にも広く言えることが多く、実際私の人生においても役立ちます。精神科医の役得です。今回はその中の一つのお話です。
 ある人は仕事人生と個人の人生のバランスをどう見出すのかというのがオプスとなっているようでした。話し合いの中で会社のベースになっている仕事観とその人の仕事観にズレが有るという話になりました。西洋、もしくはキリスト教圏の社会では労働というのは自分の時間を捧げて(苦役)それの対価にお金を得るという明確なモデルがあります。明確ですがそれだけでは、人間にとっての仕事は語り尽くせません。なのでもう一つの様式としてボランティアが普及しています。キリスト教社会では労働とボランティアをわけてそれぞれ行うというのが文化ですが、日本ではもともと「仕事」といったときに西洋式で言えば労働とボランティアが混ざって入っているものを指すように思うのです。それでていて会社はもともとの日本式を離れ、西洋式を取り入れていきますので「労働の場」の色彩が濃くなっていきます。実際の構成員の日本人の意識は従来の「仕事」のままの方が依然として多い。。。このような仕組みで同じ「仕事」という言葉をつかいながら会社は労働の意味、日本人の会社員は労働とボランティアの混ざったものをイメージとしてもっているため、双方の食い違いが問題の本質のように思われます。例を挙げれば、(雇われ側からの視点ですが、)本来ボランティアというのは人間的な交互作用を期待するものですから、会社からはそういう照り返しを感じない。ボランティアすればするだけ吸い込まれるというような徒労感を感じるかもしれません。(サービス残業という言葉は外国にもあるのでしょうか?)こういったケースではクライアントの会社への期待が現実的なのかと言う事の見直しや今回の方のように仕事人生と個人の人生のバランスを見直していくようなセッションになっていくかと思います。個人としてはこういったセッションになりますが、日本人全体としても社畜(苦役)という言葉が出てきたりしていますので日本人の仕事イメージも仕事=労働というように西洋風に変化が生じていると思います。今丁度過渡期なのだと思います。昔、何かの論評で日本人はボランティアがすくない(けしからん)みたいな論がありましたが、それはそもそも仕事にボランティアが含まれていたわけであって、それが昨今変化していますから、日本人のボランティア率というのも西欧並には上がってくるのではないでしょうか。外来でもボランティア活動している人が割とおりますし、世界陸上でのボランティアの質が非常に評判がよかったという話も聞いています。精神科の仕事はもちろん個人を相手にしていますが、社会の動き、傾向というのも非常に影響をされるので大事になります。今日は西洋社会の「仕事」と日本人の「仕事」のイメージがズレていること、会社から個人の順番に西欧風に変わってきていること、その変化の過渡期をどう生きるかというオプスに割とで診療の中で出会うことをお伝えしました。本日は以上です。

04/04/2026

<反省には2つの過程がある>
あるベテランセラピストはよく「心理療法はリフレクションが起こらないとうんぬん。。」といっています。実際リフレクションは最重要といっていいと思いますが、じゃあリフレクションって何?ということになるとユング心理学では「鏡イメージ」などイメージをつかって説明、理解に近づいていこうという傾向が多いです。ですが今回はあえて言葉からの説明、私の考えを説明したいと思います。レフレクションはrelectionで単純に訳すと「反省」となりますが日本語で反省というと良い、悪いとか罪悪感、いわゆる「謝罪」に引っ張られてしまうケースが多いように感じます。わたしはよく患者さんに良い悪いを聞いているわけではありませんよとよくいっていますが、反省という言葉を巡って私の目指す方向(心理療法の方向)と患者さんの考える方向(謝罪方向)にズレが生じているのです。もちろん人間関係においては謝罪は大事なのですが、罪悪感と強いインパクトで行動を変えていこうというのは心理療法において、(教育においても)あまり有効とは言えないのです。心理療法にあたってまたはセルフ心理療法において反省を行うときにはまず第一として「良い、悪い」「罪悪感」は横においておくというのが大前提になると思います。そのうえでまず①出来事、②その出来事をどうとらえたか、③自分の行動、気持ちの3つわけて考えます。どうして3つなのかということですが、実際に心理療法を受けている人は気がつくと思います。セラピストにあることを話したいとおもうとき、結果的にこの3つを話すことになるからです。もしくは①と③の2つを話す人もおられます。その場合でも意識のスポットライトの当たらない②が必ず存在しています。複雑な状況や心情に感じられてもこの3つ組が最小単位なのです。以上をふまえて、今回のタイトル「2つの反省がある」にもどります。まず1つ目は③につながる②を振り返るです。③というのは行動や気持ちです。気持ちの方の例を挙げれば「怒り」や「悲しさ」といったものです。実際に身体的な体験のあるものです。①出来事を②どういうふうにとらえたから③結果が出たのかということを振り返ります。これが1つ目の反省です。この段階では①はさほど考えに入れません。それよりはむしろ③の(感情)体験にピッタリの「とらえかた」を言葉にする、拾い上げる、釣り上げるといった事に集中してもらうことにします。③につながる②をしっかりとまな板の上においたら、(紙に書き落とすことを勧めます)①出来事に②の内容がマッチしているかどうかを考えます。これが2つ目の反省です。この2つ目の反省ができるようになったらセラピストとしてはこれ以上指導するようなことはなく、クライアントの作業を見守る段階になったといえるとおもいます。したがってセルフ心理療法としてはほぼ到達点ではないでしょうか。今回は心理療法での反省、リフレクションについて取り上げました。以上です。  追記:念のためグーグルでrelectionを調べたところ反省ではなく、内省となっていました。そこだけ修正しておきます。

23/03/2026

<老年期の診療にあって・・>
精神科の診療の中にあって年配のかたに関わる割合が増えています。認知症などはその代表ですし、老人性精神病、老年期のうつ病に出会うことも増えてきました。老年期自体もながくなっています。施設への訪問診の機会もあって経験が積み重なってきました。老年期の実態が像を結んでくるにつれて、「私の老年期は?」という問いが無視できなくなってきました。いつまで「自分」があるのだろうとか、どこに住むのだろうとか、考え始めると底しれない見通しの立たなさを感じます。医療という外からの観察や知識ではない「私の老年期の理解」のニーズが高まりました。タイミングが良いことにそんなときに「ミセスタッカーと小人ニムビン」という本に出会いました。今回はこの本の紹介と考えを進めたいと思います。
 この物語はミセスタッカーが「夕日ヶ丘ホーム」という新築の老人ホームに入所するところから始まります。まずこの点から大きな気づき隠れています。我々が診療の中でケースに関わるとき、患者さんが施設に入所すると、ひと仕事おわったとおもうわけです。「さしたる怪我もなく安全な環境にうつってもらうことができた。」と考えるわけです。ですが物語は入所から始まります。ミセスタッカーはあたたかいホームからの脱走を計画します。ミセスタッカーは老人たちの英雄ですから緻密な計画を立て見事、荒野の「開拓小屋」で新しい暮らしを試みます。開拓小屋の話は後で取り上げますが、その前に訪問診をしているとミセスタッカーをはじめ、少なくない老人たちがあたたかいホームからの脱出を試みていることに気が付きます。「帰宅願望」という形で我々のところに相談が寄せられます。この脱出の動機はミセスタッカーによれば「自分を子ども扱いして、何にもできないだろうとおせっかいの押しつけはたえられない」とのことです。もちろんミセスタッカーの意見が全てではないにしろ、私には新しい視点でした。つまり我々を子どもあつかいするなとか、まだまだできることがあるという頑固な思いがあるわけです。ミセスタッカーは実際にやり遂げるわけですが、認知症の方を考える場合にも当てはまるように思います。ここでは実際に能力があるかは別問題で、こういう頑固な思いがあるということを想定していたほうがいいということです。ここであるケースを思い出します。その方は施設内の問題児で、私も訪問診で関わっていた方なのですが、その方が大豆と小豆が混ざっているものを分けるという作業に関わるようになったら非常に落ち着いたというケースでした。その方がわけた豆の入ったお椀はバックヤードに運ばれ、そこで再び混ぜられ、その方に「これもお願いしますね」と渡されます。内情までしると賛否あるとおもいますが、少なくともその方にとって内面の安定をもたらしたのでした。実際、施設に住み込みで奉公に来ていると考える認知症の方は多いのです。まだ役に立つ側だという認識が欲しいのです。また関連して思い出すのが、子どもたちには迷惑かけたくないという老人たちの訴えです。これも私は素直に遠慮しているとか忖度しているととらえていたので「迷惑ではないですよ」とか「関われるほうが安心なんですよ」というふうに子どもたちの視点の代弁する声かけをしていたのですが、老人たちの頑固な抵抗にあうことが多かったのです。ミセスタッカーによれば、これは「まだまだやれますわい」という思いのがあるようなので、それを踏まえるとこの頑固な抵抗への理解が深まる気がします。
 話をミセスタッカーの方に戻しますと、ミセスタッカーはあたたかいホームから脱出し「開拓小屋」で暮らすことになります。開拓小屋は雄大で豊かな自然の中にありますが、その描写は豊かという言葉では生ぬるい、圧倒的ないきものの「気配、ざわつき」が描かれています。この「気配、ざわつき」ですが、老年期に初めて体験するものではありません。私は子供の頃、夕方の帰り道で通らないといけない墓地の横を通り抜ける時、おばけの影に怯えたものでした。家の中でさえ夜中にトイレいくとき廊下の曲がり角に「気配」を感じて怯えていました。おとなになってそんな感覚は全く忘れていました。この変化は電球が明るくなったとか家の気密性が良くなったからとかそういう話ではありません。子供の時代、世界はいまより不安定でざわついて「気配」に満ちていたのです。おとなになると自我が安定し、気配が消えます。そして子供時代の感じ方など覚えてもいません。ミセスタッカーは再び圧倒的な自然の気配の中に入っていきます。このことは非常に示唆的です。ミセスタッカーが入っていったのは実際の自然の中ですが、ホームで暮らす彼女の元同居人たちも自我機能の衰えの結果、周りの日常がざわつき、動き出すような気配の中に暮らしているのではないかと想像できるからです。全く混乱してしまうと老人性精神病ということになってしまうけども、そこまでいかなくても私たちが子供の頃確かに経験し、またしばらく忘れていた世界の見え方に戻っていくものと思われるのです。
 いきいきしだした自然の中に入っていくミセスタッカーは犬を連れいていきます。ここでのミセスタッカーと犬の関係は昨今の愛玩動物としての犬とは違っています。もっと古代からの歴史ある人と犬の関係です。想像しやすいのは桃太郎と犬の関係でしょう。犬は人より遥かに自然に馴染み安く、本能に近く、人とは独立しながら完全に信頼のおけるパートナーです。危険察知に優れているため、騒がしい自然の中でも安心して眠ることができます。動き出すような(子供の頃のような)気配の中で暮らすことになる老年期において安心して過ごすために、今のうちから「犬のような」感覚を研ぎ澄ませておくとよいでしょう。一番イメージしやすいのは実際に犬を飼うことですが、万人が飼うわけにはいかないと思いますのでそこは工夫が必要です。匂いをかぐとか土いじり、タイムとか距離とか数字に注目しない気ままな散歩、運動。など大型犬がしそうなこと真似してみても面白いと思います。おふざけ半分でいいので内的な犬イメージと仲良くなっておくと老年期、とくに認知症の心配が出てきたくらいの時期にどっしりとしていられるものと思います。
 話は変わってここでもう一人の登場人物である小人のニムビンに目を向けます。ニムビンは大自然の一部である精霊、超常の存在ですが、ニムビンの方にも事情があります。文明の影響を受けているのです。かつての自然の中の生活ではなく、開拓小屋の壊れた鶏小屋に住んでいます。ネズミたちのご機嫌をとりながら太ったネズミを間引いて食べています。ネズミたちはうすうすニムビンの魂胆に気づいていて、ニムビンの足元をみたり、あしらったりします。ニムビンは自分を知恵のある存在と思っていますが、振る舞いはイライラした子どものようです。下心をもってネズミに媚びて近づきあしらわれる姿はみじめさが漂います。この小人のニムビンが開拓小屋で好きにうごいていますからミセスタッカーは戸惑います。扉を締めたはずが開いている。鶏に餌をあげたはずが鶏たちが腹をすかせている。心当たりがないことが起こるからです。ミセスタッカーははじめ自分が認知症になったと思ってひどく自信を失います。私は以前の書きもので認知症の体験は物忘れというより狐につままれるとか手品にかかったとかの体験に近いのではないかと考察しました。ミセスタッカーの体験はまさにそうだったろうと思います。後にミセスタッカーは小人のせいだとわかってとても安堵します。このことを認知症診療とからめていくと物盗られ妄想の話を連想します。物盗られ妄想では認知症の物忘れについて当事者は「ぬすまれた」と体験します。盗まれた以上犯人がいるはずで、ニムビンが犯人だということになれば家族は安泰なのですが、不幸にもお嫁さんなどが犯人とされます。いわれのないことを言われるお嫁さんも面白くないですから家族がギスギスしてきます。盗まれた犯人がいるほうがまだ安心できるという認知症の事実を押さえておくと家族の結束は固まります。すべての物忘れ(トラブル)が小人のせいということになれば丸く収まるのですが、人類の頭は不器用に科学的になりすぎたようで精霊の住む余地が残っていないのです。さてミセスタッカーとニムビンの関係ですが、はじめミセスタッカーはニムビンを見ることができません。彼女の飼っている犬のみがニムビンを感じることができ、追い立て騒ぐのでかえって犬との信頼関係が揺らぎます。ですがやがてミセスタッカーもニムビンを見ることができるようになります。またミセスタッカーは足にマメがありびっこを引いて歩くのですがニムビンも同じ足に負傷します。ミセスタッカーとニムビンの関係は不気味に近づき重なっていくように見えるのですが、物語の中では結論は曖昧です。尻切れトンボのような終わり方です。特に私は老年期、認知症体験に重ねて考えているので余計断定ができませんでした。それだけにみなさん、もしよかったら元本を読んでいただいて色々想像力を働かせてみてください。きっと豊かな時間になると思います。今回は「ミセスタッカーと小人ニムビン」という物語をヒントに老年期、認知症期を内側から想像してみようという試みでした。ユング心理学では物語を心理学的視点で味わうということはよくあります。今回も見直してみて意図しないような気づきがいくつかありました。みなさんはどうだったでしょうか。今回は以上です。

13/02/2026

<心理療法の概要>
「今日はどんなお話ですか」というのが私の初診の方に対して第一声です。相手の顔色をみて「今日はどうされました。」に変えることもあります。この聞き方はオープンエンドクエスチョンといって精神科だけでなく医療の面接の基礎とされている聞き方です。対になるものとしてクローズドエンドクエスチョンがあります。これは「頭痛はありますか?」「熱はありますか?」というようにイエスかノーで答えられる質問です。話をオープンエンドクエスチョンに戻しますと、このやり方ですと患者さんが何を求めているのか(主訴)が捉えやすくなります。身体科であれば主訴を元にクローズドエンドクエスチョンで問題を絞り込み、アセスメントにつなげることになります。精神科ではオープンエンドクエスチョンはさらに重要になります。というのもイエスかノーで答えられない、「問題」とその問題についての「考え方」「捉え方」を知る必要があるからです。こころを対象にするとき「出来事」と「どう考えるか」「どう捉えるか」はセットで重要です。なぜなら出来事は誰に対しても共通ですがそれをどう捉えるかにその人、個人が浮き上がります。この「個人」というのがいわゆる「こころ」であって精神科医療や心理療法の対象となります。
 昔、不眠を主訴に通われていた方が卒業するとき、診療を振り返って「先生のところへ来て、寝れる寝れないはあまり変わらなかったけど、眠れなくてもいいやと思えるようになりました。」とおっしゃっていました。この方の主訴は不眠でしたが、幸い精神病性の二次性の不眠ではありませんでした。心因性であったので捉え方の変化を目標したケースです。もちろん心因性であっても睡眠薬で満足するケースであればそれでもいいと思います。
 むかし心理療法の講義で「心理療法は精神(ここではこころの意味)の自由を保証することだ」というようなフレーズを聞いたことがあります。ここでは何を話しても自由なんだと言うことを体験的に理解し、実践してもらう、これが心理療法の根幹になります。私は初診からこの精神の自由を保証する態度でやっておりますが、クライアントが意識的に心理療法のルールに馴染んでくるには時間がかかります。なぜなら何を話しても自由という場所はどこを探してもめったに見つからないはずだからです。むしろ心理療法に馴染んだ方でないなら全くの初めての経験だと思います。心理療法のおこなわれる場というのは以前お話した遊びの空間と非常に近しいので、遊びの経験を延長して想像してもらうのが馴染んでもらう早道かと思います。このあたりをクライアントさんがさっと了解されるのと戸惑い続けるのとで変わってきます。心理療法の導入の難しいところです。ここまでで心理療法はどういうものかまとめますと<精神の自由が保証された場で、心の自由な活動を体験、実践すること。その結果として捉え方や行動のの変化を期待するもの>とまとめることにいたしましょう。ここで治療者の役割に焦点を当てますと主な役割は精神の自由を保証することになります。心の自由な活動というのは場合によっては破壊的になることがあります。外的には反社会的な行動につながることもありますし、内的には精神病状態にエスカレートすることも考えられます。そこまでいかなくともちょうどお鍋が吹きこぼれるように、治療者やクライアントの日常生活に影響力をしめすことは十分考えられます。治療者はちょうどお鍋の番をするように、吹きこぼれないようにとかまたは調理が止まっていないかとか見る役目を担います。これが枠を作るとか枠の維持といわれる治療者側の役割です。基本的な、かつ重要な枠としては「定期的に」「決まった時間」で会うということです。心理療法の視点では予定外受診というのは歓迎できません。もちろん理由によりますが枠を揺さぶる予定外受診に対しては、「定期的に」の重要性を伝えていくか、当初予定していた心理療法を一旦諦めて、別の枠組みを再設定する必要があリます。心理療法を説明するにあたりあれもこれも言いたくなりシンプルには言い含められませんが、①枠組み(あるルール)を作って、その中では②精神の自由を保証し、③心の自由な活動を通して④クライアントの捉え方や行動の変化を期待する方法というふうに理解しておいてもらえると精神科受診の前知識としては十分と思われます。今回は以上です。

06/02/2026

<衆議院選挙>
衆議院選挙で世の中一色になっています。というのも私は普段、YOUTUBEで動画を見ているのですが、そのホームのおすすめに出てくるタイトルが軒並み衆議院選挙の話題に染まっています。すごい熱気を感じますね。私は普段、自分のできないことに手を出すよりは、自分の役割をしっかり果たそうというのを規範にしています。野球で言えば、自分の守備範囲をしっかり守って、何点リードししているとか優勝するとかしないとかは取り合わない。極端に言えばチーム貢献も意識しないそんなスタイルです。これはチーム貢献する気がないのではなくて、自分の仕事をしっかりすることが最高にチームに貢献することだと信じているということです。そんなふうに普段は生活しております。おそらくベネゼエラとかイランとか中国とか普通選挙のない国に暮らしていても先の信念から自分の仕事をしっかりすることに注力し、デモとか政治的な運動をするタイプではないと思います。
 そんな我が家に今回、2枚のハガキが届きました。一つは私の分、もう一つは奥さんの分です。日本は幸い選挙のある国です。さあ私の守備範囲にハガキがきました。どうかえすか。わくわくします。スルーは論外です。エラーと同じです。。。というわけで長くなりましたがハガキが来た方、投票に行きましょう。今回は以上です。

06/02/2026

<告!臨床研究会再開>
月曜日の朝、友人のS先生からメールが届きました。内容は臨床研究会を再開しようとのお誘いでした。臨床研究会というのはもう10年近く前に私とS先生が中心となって、たちあげた事例検討を中心とする勉強会です。その後心理師さん中心のうたのまちの研究会に参加する形になり、うたのまちの研究会が解散になってからはコロナもあって開催されていませんでした。私はS先生の申し出に二つ返事で乗ることにしました。S先生の出してきたコンセプトは2点で①特定の理論や技法を学ぶ場ではありません。事例を通して、治療者自身の「選択」といっしょに眺める会です。②成功例や完成した事例を求めません。むしろ、まだ自分でも扱いきれていない臨床場面を歓迎します。とのことでした私は加えて、①守秘義務を十分理解し守れる方。②事例を出せる方の2点を挙げたいと思います。それとこれは絶対ではないですが、検討内容はどうしても精神療法によっていくとおもうので薬物療法メインの事例だと十分満足できないと可能性が高いです。また私たち2人を含めて合計6人を上限の会にしたいと思います。以上の内容で興味のある方がいましたら当院にお問い合わせください。

02/02/2026

<ヒポクラテスの誓い>
ヒポクラテスの誓いというのをご存知でしょうか。大まかに言えば医師の職業倫理とか医者とはこういうものというのを伝えたものだと思います。私がこれに出会ったのは医学部の最初の授業でした。それ以来、何かと私の医者のスタイルに影響を与えていて、ときにそのせいで苦しんだり、器用に立ち回れなかったりしています。その点で言えば三重大医学部の最初の授業は大成功だったと言えるでしょう。とはいえ20年以上昔のことなので改めて振り返るとあやふやになっている事に気がついたので今回アップデートしておこうと考えました。
<ヒポクラテスの誓い@wiki>
アップデートといっても学生時代の資料などとっくに紛失しています。しかし今は大変いい時代でウィキペディアでお手軽に原文(もちろん日本語訳ですが)にあたることができました。結果は「?」という感じでした。たしかに「ああ、こんな内容だったな」とピンとくるところはあるのですが、琴線に触れるという感じはわずかだったのです。私が教わったヒポクラテスの誓いは現代風にアレンジされたものだったのかもしれません。原文は興味のある方はウィキで調べてもらえばいいと思います。私が自身に再確認したことといえば、「専門性の立場から患者に利益のある治療法を選択し、害が生じるとわかっている手技はおこなわない。」という誓いがあります。また依頼されても人を殺す薬は与えないというものもあります。当然のことかと思うかもしれませんが、昨今安楽死関連の事件があったことを思い起こしてもらえば、医師にとっての正義を考えるうえで重要な先人の教えでであることがわかってもらえると思います。人を殺す薬というところを必要のない薬と読み替えると私の専門である精神科で言えば、睡眠薬の話があります。原発性不眠の場合、殆どの場合睡眠薬は必要なく、生活習慣や心理療法が第一に用いられるべきとなっています。しかし患者さんは納得しません。幸い睡眠薬は常識的な使い方であれば安全ですので、患者さんの要望と自分の正義感との間で妥協点を探す流れになります。しかし過去には危険な飲み方が習慣になっている人に対して毅然と対応し、詳細は言えませんが警察沙汰になったこともあります。こういう対決の局面で内心尻ごむ自分を支えたのは「患者に対して悪いことはけしておこなわない」という誓いの一節でした。
<医神アスクレピオス>
ヒポクラテスの誓いで他に取り上げられているのは師ー弟子のつながりの強調と秘儀についてです。これについて考えてみます。秘儀とは自分たちのグループ以外にはその手技を秘密にすることです。秘匿することによって特別な心理的な効果を期待することができるのでしょう。現代においてはナンセンスに思われますが、ところがどっこい医者の世界ではその雰囲気が残っています。「〇〇先生は自分の指導医だったから頭が上がらない」「彼はわたしの後輩で・・」「私は〇〇先生のあとについてまわっておしえてもらった」など医者同士で話をすると師ー弟子の軸で人間関係ができていることが実感されます。また秘儀についてですが、私の専門分野である精神科に限ったことかもしれませんが、「口伝」のようなものが多々あります。もちろんEBMにのっとった診療をするのですが、「たまに一緒にのみに行くにはいい人だけども、毎日一緒だとつかれるなと言うような人には〇〇(薬名)がよく合う」など「口伝」の形式で伝わることがよくあります。これは秘儀の伝統を残しているものと思います。また中井久夫氏の文章から知ったのですが、氏が神戸大精神科教授のときに「向精神薬を実際に服用してみてその体験を活かす」目的で医局員を集めて集団で服用会を開いたことがあるそうです。レボメプロマジンの時などみんな倒れてしばらく動けなかったそうで、このあたりのことなど冷静に見ると宗教秘儀後みたいな光景だったものと想像できます。
 このあたりの師ー弟子のつながりや秘儀に代表される神秘的な情熱(熱狂?)を理解するにはギリシャ神話の研究者のカールケーレニイという人の書いた「医神アスクレピオス」という本が参考になります。まずアスクレピオスですが、これはヒポクラテスのお師匠さんに当たります。アスクレピオス自身はケンタウロスという半人半馬の存在から医学を教わっています。またアスクレピオス自身も太陽神のアポロンと人間のお姫様の間に生まれた半分神様、半分人間の境遇で神話の中の人物です。ケーレニイによれば古代の医師たちは自らの技、仕事を通してアスクレピオスとのつながり、さらに上流の太陽神アポロンとのつながりを感じ、同時にその神秘の熱量を受け取っていたということようです。
 神とのつながりということですが、これは古代のしかも遠いギリシアに限ったことでしょうか?考えてみると「医」はずいぶん神とのつながりが多いように思われます。手術のうまい人を神の手とかいって時々テレビで放送していたりします。世界規模ならしょうがないかもしれませんが地方都市レベルでも「腰の神」(手術のうまい医師のことですよ)などの噂を耳にします。「奇跡」なんていう言葉も医の世界ではよく出会います。奇跡という言葉の背後に神の活動を感じるならば、私の知る限り「医」ほど神が降臨!?しやすい舞台もないように思います。ですので医師が神秘の熱量に当てられているということは遠い古代ギリシャのことだけでなく、現在においても当てはまるように思われます。大きな使命感の前では自分のこと、「私」個人のことが<あんちょこに見ると>小さく見えてしまいます。自分の経験ですが、私が学生時代、研修医時代と出会った先輩医師たちは医局の熱量が高いほど、個々のプライベートは問題を抱えていました。単純に家族と過ごす時間がないという場合やもっと複雑になっているケースもありました。テレビでやっていた「神の手」も人間の〇〇さんとしては幸せだったのか?大きなお世話と思いますが、想像してしまいます。私の考えですが、使命感という言葉で片付けるには不十分な、神秘の熱量ともいうべきエネルギーがついて回る職業が医者という職業になります。これには魅力もありますが当然危険もあります。
 今回はヒポクラテスの誓いを改めてみてみました。医師の仕事について、自分の実感も交えて考えてみました。自分でも思いもよらない方向に思考が進みましたが、色々納得がいったところがあり有意義でした。
 もっとも最近は神も簡単になったようで、末の息子は音声チャットでゲームしながら「神!神!」と連呼していますから、実際はどうってことないのかもしれません。今回は以上です。

20/01/2026

<信念あけましておめでとうございます?!>
新年あけましておめでとうございます。私は年末の作業として年賀状書きと家族の写真のスライドまとめの2つを自分に課しているのですが、家族スライドの方を31日まですっかり忘れてしまい、「これも一つ役目を終えたのかな」と考え、やめてしまいました。それでも10年以上は続けていて良い記録です。役目を終えるといえば全国的に年賀状の数が減っているようで、私についても最盛期に比べれば今年書いたのは20枚とだいぶ減りました。喪中はがきをいただいて、年賀状を辞退しそのままというケースもありますが、年賀状じまいをいただいてやめるというケースもちらほら見受けます。SNSの普及で年賀状を出さないケースが増えていると言われています。私はSNSを個人ではやっていないので、大学時代の友人から年賀状じまいをいただいて、縁が切れてしまうようでさみしく思うことも出てきています。
 そんな年賀状ですが、ある先生からいただいた年賀状にニンマリできたので、ご紹介したいと思います。もちろん私個人へのメッセージでしたら、紹介はマナー違反だと思いますが、きれいに印刷をかけられている文章だし、広く公に出しているものだと思います。私個人には肉筆で言葉がありましたのでそういう解釈で良いと思います。。以上の理由でこの場でご紹介できると判断しました。以下原文です「中略、ヒトが育つ過程で抱えた「不安」を背景に表出される「症状」や「行動」に、付き合っています。その子が「人」になっていく。。表現する力が少しでも育まれるよう手伝えればと考え、連携体制を創ろうとしております。」なぜニンマリしたかというと古き良き精神科医のスタイルだなぁと思ったのとその先生の溢れる臨床への情熱に懐かしさと「いまだ健在!!」と感心したからでした。
 古き良きという部分については精神科医はかつては人生観や人間観の関連から哲学・心理学に興味・関心があり、いわゆる”そういう色”の人が多かったのです。そっちじゃない人は思想や社会制度などの方向に行く人も比較的多かったと思います。いまは生物学的精神医学が主流なので若手の関心は哲学系には向かないようです。良い意味では精神科医のカジュアル化が進んでいると思います。悪い兆候としては精神療法の「テクニック化」が進んでいるように感じます。若い先生の本棚をみると「〇〇の方法」とか「〇〇の人との付き合い方」とかハウトゥー本で背表紙もパステルカラーのカラフルなものがならんでいます。昔の先輩の本棚はミンコフスキーやらマズローやら、もちろんフロイトやユングの原著(の日本語訳)などちょっと気軽に手に取れなそうな厚い(熱い)本が並んでいたように思います。「テクニック化」というのは指示の内容はともあれその指示の土台となっている哲学、心理学へのつながりがない状態、そういう状況が進んでいることをそのように表現しています。
 もう一つの感心した臨床への情熱という点です。私も含めてですが、何気なく仲間と集まっても臨床の話をしてしまうような情熱が昔はあったなぁと思うのです。これは場とか空気を読むとか関係なく情熱がありすぎて暴走気味に「俺の臨床の話を聞け」的な熱量の結果でありました。ですが去年の年末、友人たちとあったときはついに「俺の臨床話」は出ませんでした。この会は従来お酒も飲まないのに熱っぽく臨床を語る集まり(その目的で集まるわけではないのですが)だったのですが、年末はいつもと違って趣味の話とか近況の報告とかでおわってしまいました。臨床の話自体はケース検討会や学会発表などする機会はあるわけなのですが、私が問題にしているのは情熱の側面、「俺の臨床話とする」ことへの飢え、欲求なわけです。この熱量が自分も含めてなくなってきたなぁと思い淋しく思っていたところだったわけです。ある先生からの年賀状からは臨床への熱量・信念が伝わってきて「〇〇先生、健在だなあ」と勇気づけられました。
 次第に存在意義がはっきりしなくなっている年賀状のやりとりから時代の変化とその中で変わらないもの「いまだ健在!」ということが感じられてニンマリできたというお話でした。今回は以上になります。

13/01/2026

<医療迷子>
 たまにではありますが、そう少なくない頻度で「医者にメンタルだと言われたので来ました」という方が来られます。こういったケースでは「(医者はそう言うけども)あなたはどうおもいますか?」と聞きます。ここであっさり、さっぱりとした感じで「そうは思いません」とか「ピンとはこないのですが、」と意思表示される方がおられます。こういう方は少なくてもお悩みの身体症状に関してはメンタルということはありません。理由としては心因というのは問題は社会の中で生まれていて、それが横滑りして身体症状化しているので心当たりが必ずあります。もう一つの可能性である内因(脳の異常)の場合は反対に心当たりは全くありませんが、かわりに表出に特徴があるのですぐに区別がつきます。
 話を元に戻して、他の医者からメンタルだと言われてきましたという初診の方で、早々に精神科でもない事がわかった時どうするかという話です。私の場合は、私の見解は正直に伝えたうえで、見通しが立たない心配の気持ちの緩和はできることやケースマネージメントの面で相談にのれることを伝えていきます。信頼の出来きる身体科の医療、医師につなげることを方針にしています。ポイントとしては関わりを切らない雰囲気を伝えることが大事だと思っています。というのもしばしば<医者にメンタルと言われてきた>という人の中には、前医に<さじを投げられた><拒否された>という印象を感じていることが多いからです。皆さん大人ですから医者の対応への恨み節おっしゃる方は少ないですが、それでも言葉の表現からは残念に思っていることが伺えます。そういうわけで私は精神科領域ではないと思っていても援助の用意のあることは伝えていくことにしています。
<異常がないと精神科>
 「異常がないので精神科に行ってください」と言われましたというケースには医者側の怠慢も含まれているように思います。我々の科はいわゆる不定愁訴と呼ばれることがあるほど、訴えだけを見るととてもバリエーションが豊富です。神経症ということ考えるとほぼなんでもありになります。こういう背景があって、異常がないと精神科とまるでゴミ箱のようにポイポイ放り込んでこられる印象を受けることがあります。異常がないとレッテルを貼る前に慎重に所見を取ることが大事です。ある方が身体愁訴で来られました。その方は大きな病院も含めて3件病院を回られていて、メンタルです、ストレスですと言われたので当院に来られました。短い問診で心因ではないと確信しましたので、先に挙げたようなことに気をつけながら問診を続けました。大体の問題の領域は絞れたので患者さんに説明し、紹介状を書いて勇気づけて送り出しました。後日その方から連絡があり紹介先の病院で異常が見つかり、治療のレールに乗ったとのことで感謝の電話がありました。遅れてきた紹介状の返事には見慣れない病名が書いてありましたが、紹介した科は(領域は)バッチリだったことは確信できました。とても後味の良いケースでした。
 精神科医はかなり特殊な科で身体的な診察は殆どできません。卒業時で時間が止まっています。それでも医学教育というのは大したもので粘り強く問診するとだいたい何科の分野とかどの科が得意そうとかがわかるようになっています。もちろん自分の科はよくわかりますから心因ではないという確信が粘りを後押ししてくれます。こんな経緯でこの方のケースはうまく適切な医療に乗せることができました。それでも私のところに来る前に3件も病院を回っている。それぞれの先生たちがパフォーマンスを発揮していれば、私がなれない立ち回りしないでも診断ー治療のラインに乗せることができたのだろうと思うのです。それぞれの先生の目を曇らせたのは、「このケースは自分の領域ではない」というレッテル貼りと自分の領域でないなら関係ないという消極的な姿勢、厳しい言葉で言えば怠慢のせいではないでしょうか。
<精神科の患者はみたくない?>
身体症状を主訴とする(表向きは)精神科の患者さんがおられます。身体化とか身体化障害など言ったりします。これらの中には心気症といったり、身体表現生障害といったりするようなイメージとしては精神病に準ずるような難しいケースもありますが大概はもっと日常的な疾患性も低い現象です。日常会話でも「頭痛の種」(悩みのこと)「耳の痛い話」など体を巻き込んだ表現は多くあり、それだけ精神活動が身体の方へ横滑りすることはある程度日常的なことです。このような患者さんは身体科の先生から見ると治療しても良いような悪いような動揺をみせるし「やりがい」からするとやりがいを感じにくい患者さんだと思います。疑念は膨らんでついに「メンタルだ」考えるようになります。その結果、精神科につなげてくれるのはいいのですが、患者さんとの関係を切らないでほしいのです。もちろん患者さんの方から「そうですか、精神科ですか、ならここは結構です。」というケースならば問題ありません。ですが、これは大学病院では顕著ですが、苦労して通って待ち時間の末に先生とやり取りするだけでも患者さんは癒されているのです。こういう側面もあるので身体科の先生はメンタルだと考えて精神科につなげもらったあとも一呼吸おいてもらって、関係を切らないようにしてもらいたいです。身体科としての治療の見通しははっきり見えなくても通院の「役割が終われば」スーッと患者さんは離れていくものです。ですので医療者側から関係を切っていく必要はありません。「通院が続く以上、治療者が意識しているいないにかかわらずクライアントは何らかの利益を得ている」これはもう何十年も前に精神分析の授業で(おそらく、一番はじめの授業)教わったことです。未だに時々新しく感じられて思い出される言葉です。このように医療者サイドで目立った成果が出ていないくても、心の分野では必要なプロセスを踏んでいる可能性が高いので、体のお医者さんに相談できるという機会を医療者側から閉ざすことは控えて欲しいものです。
<上手な医療者の見つけ方>
前半は「検査で異常はない」「メンタルだ」といって適切な治療に繋がるのに時間がかかったケース。後半は「メンタルだ」となると身体科の医者が関係を閉ざしてしまうケースについてご紹介しました。前半は自分の専門域だけでない広い知識や興味が必要だと思うし、後半は精神科につなげることは一番としても、患者のニーズが有るなら、自身の科としては見通しはたたなくても患者さんに寄り添う姿勢が必要だと思います。この2つに共通しているのは専門知識というよりはむしろ医療者の心構えとか「どうしてあなたは医者になりましたか」というようなそもそもの「問い」、医療者のヒトトナリがおおきく影響してくるということです。こういうしっかりした医療者に出会うのにはどうしたらいいでしょうか。私の経験ではこういう医師の特徴は医者の仕事が好きであることです。またこういった方たちは専門分野はもちろんですが、他の医療の分野への興味も高いです。もっと大きく構えると「ひと」が好きという共通点があるように思います。ただの飲み会であつまっても、つい診療の話をしてしまう。そんな人物像です。そういう医者を見つけるには、個人的なつながりか医者同士の評判を頼りにするのが良いように思います。結論がパッとしませんが今回は以上です。

26/12/2025

<私の占いはあたるっ>
先日、高校生になる息子が家の鍵をなくしたという騒動がありました。一般論ですが、なくし物は長い目で見ると当人の生活のスタイルを見直す良い機会なので、見守っていました。ですがしばらくして、「易をたててみるか」と思いたち、易占いをしてみました。
<易占いとその後の経過>
 易をたてるにあたって、大事なのは「問い」です。今回は「鍵はどこで見つかるか」としました。iphoneのアプリを使いました。結果は15番「地山謙」で変爻は四番目になりました。易で得た卦(結果のこと)の解釈は第一印象が大事になります。まず私は「すぐに見つかる」と感じました。感じた通り「地山謙」はややこしくなく、努力がそのまま結果になる卦なので探せば見つかると第一印象を後押しする内容でした。2番目に私が注目したのは卦の形でした。易はやったことがある人はわかると思いますが、(よかったらネットで調べてください)一本棒の陽と一本棒で真ん中が途切れた陰が3つ重なってひとまとまり(地とか山)、2つのまとまりで一つの卦(この場合だと謙)を作っています。アスキーアートを見るときのような要領でみると、この陰と陽の棒の形が机に上に本がたくさんある様を連想させました。直感的にはカラーボックスの上にあると思ったのですが(←重要)息子の生活圏ではないのでこれは除外し現実的にはリビングのテーブルの上、もしくは息子の机の上と考える方がいいだろうと思いました。3番目に参照するのは易経にある「地山謙」の項にある説明というか詩のような文です。地山謙とは山のようになっている(豊かな)ところを崩して、地のようにひくくなっている(足りない)に分けることを謙(虚)の徳なのだという説明がついています。1,2,3のこれらの要素を統合して予想を立てると占いの結果は、1、鍵はさがせば容易に見つかる。2、机の上に山になっている本、書類を崩しながら(整理しながら)さがすことになる。以上のような方針が立ちました。期待を持って方針に従って早速探し始めました。。。しかし見つからない。家にはないのではないか、学校の机の中にあるのではないかという意見が出てきました。私は机の上というところが当てはまらないと思いながらも書類を整理するという部分は該当するともおもい、息子を連れて高校まで行くことにしました。結果は。。。。ありませんでした。
<その後の経過と答え合わせ>
 失意の中、息子と帰宅したのですが、その後自体は急展開で、鍵は出てきました。3番目の男の子のランドセルの中にありました。想像されるストーリーとしては、高校生の息子がキッチンあたりに鍵をおく→母親がそれを3番目の男の子の鍵と勘違いし、ランドセルにしまった。ということのようでした。3番目のランドセルはカラーボックスの上が定位置です。以上のことをまとめますと私の易占いはそこそこいい線をついていたのではないでしょうか。それからこれは完全に後付なのですが、「地山謙」の卦は真ん中あたりの1陽を周囲の5陰が囲むような卦の形をしています。陽は男性、陰は女性を表しますので女難をほのめかす卦となっています。初めの時点で母親の関与まで思いがはせることができれば、自体はもっと早く収束したことでしょう。
<易占いとユング心理学>
 易占いとユング心理学は関係が深く、私が留学していたときは易占いのついての授業がありました。易占いだけでなく、ユング心理学は占いに広い興味を持っています。現在日本ユング心理学分析家協会で開講している講座の中には占星術の講座があります。ちなみに私は占星術の基礎という講座はうけました。今は実践指導を行っているようです。ユング心理学のお家芸である夢分析も占いと近しいところがあり、数年前一つの事例を夢分析の立場のコメントと占星術の鏡リュウジさんに占星術者の立場からのコメントを比較するイベントが有りました。私の感想としては占星術でここまでクライアントの特徴がわかるのかと感心しました。易占いが予言ができるのかどうか、それは皆さん、関心があるでしょうが、そこに踏み込むと一気にオカルトっぽい雰囲気になるので避けておきたいと思います。もっと確実に言えることしては易占いと占星術とか同じような占いの形式のものでは「投影」という心理学の現象が働いています。投影というのは自身の心理的な内容が外のある人物をいわば依代としてその人の特徴として(真実は自身の特徴なのですが)感じられることです。投影の依代となるのは、他人だけでなく言葉やイメージもあります。よく患者さんの言葉で「もやもやする」というのも聞かれますが、これはまだ不十分な投影の内容でこれに適切な依代(言葉、イメージ)があたえられると急速に意識内に展開されることになります。その展開の衝撃がつよいことから「そうだ!!」とか「わかった!!」とか手を叩いたり体が動くこともあります。私の考える占いというのはそのもやもやに依代をおろしてくる作業ということになります。したがって良い依代というのは言葉やイメージが豊かなものである必要があります。私の知る限りでは易、と占星術、タロット等は十分この条件を満たします。易、タロットはともかく占星術は数年前講義を受けて、たくさんのイメージが含まれていることにびっくりしました。有用と認めたうえで自分の人生のツールとしては易を使っていこうと決めたことを覚えています。さてここまでは占いの手段のついての話でしたが、次は占う人側の話です。先にいったとおり、内的な投影の現象をつかうのですから「もやもや」している必要があります。必要なことはすべて検討し、それでも方針が決まらない。いわゆる葛藤状態で頭から煙が出るほど(もやもや!)であることが理想の条件です。すくなくとも少しも悩む前に「占いにきいてみよう」ということではピンと来る体験は訪れません。人事は尽くされた、あとは天命を待つのみという境地が必要です。そういう煮詰まった状況に豊かな依代が降ろされることによって、「ある内容」が急速に、衝撃的に意識内に展開することになります。その結果、葛藤状態は解消され、方向性(モチベーション)が生まれることになります。悩みが解消することになります。と、このあたりが私の考える占いのメカニズムです。未来の予言については「当たるも八卦当たらぬも八卦」というのが私の公式のスタンスですが、タイトルにもある通り、あたる気がするんですよね。。それとこちらが読みのテクニックを仕入れれば仕入れるほど、それを読みにいれるような結果を出してきます。このあたりは夢の分析ともにていますがまことに不思議なものです。私は最近、不思議さ=奥行きと考えています。奥行きに豊かさを感じるか、奥行きに怖さを感じるかはその人次第ですが、易占いは私の人生に豊かさを加えてくれるスキルになっています。今回は以上です。

13/12/2025

<争いについて>
昨今、争いの気配が強くなってきています。ロシアウクライナ戦争はすでに数年が経過しているし、中国と台湾、アメリカとべネゼエラの戦争も現実的になってきているのを感じます。私は政治のことは興味は持ち続けますが、直接関わることはできません。ですが「争い」については興味が高まってきました。そのタイミングでふと10年以上前に「暴力の由来」という題で京大の山極寿一教授の講義を文章に起こしたものを持っていたことを思い出しました。おもいたって早速引っ張り出し読んでみました。その中で印象に残ったところをお話したいと思います。
 まずはじめに山極寿一氏ですが、霊長類学の先生ということです。ですのでゴリラやチンパンジーの研究から得られた知見ということになります。
<集団と個>
サルやゴリラは群れを作りますが、同時に脳も発達していて個というものが生まれてきます。集団と個というのは相反しますからお互い共存するために優劣を付ける必要が出てきます。集団の中で自分(個)はこのポジションであると階層的な居場所を作る必要があるからです。したがって群れの中での優劣を巡っての争いが起こります。対比としてアリとかハチとかは巨大な集団を作りますが個がないので(集団内での)争いは起こりません。ニホンザルでは優劣を決める争いが当然起こりますが、一度、優劣がきまるとそれは比較的長く維持されます。ですのできまったあとは安定し、争いの少ない大きな階層社会を作ることができます。一方霊長類になるほどこの優劣の固定化はゆるくなっていくようです。そうなりますと優劣を巡っての争いが頻繁に起こるようになります。この理屈でいきますと霊長類の最たる種であるヒトにおいては絶えず優劣を巡る争いが起こることになるという結論になります。この結論からヒトは争いを繰り返す本能が備わっているのだといえそうです。このことについて一つ思い出したことがあります。私は先日、大分県の耶馬渓という風光明媚な所へ旅行したのですが、その地に競秀峰という、4つのもっこりした山が並んでいる、大変見応えがある地形があります。昔の人はその山が並んでいるさまをみて山々がお互いどちらが秀でているか競い合っていると感じ、それで競秀峰と名付けたとのことです。私はただもっこりと山が4つ並んでいるだけなのにそこに争いを想像するのは不思議に思いましたが、なるほど、ヒトには争いを繰り返す本能があると今回知りましたので、納得がいくのとその業の深さに途方に暮れる感じがいたしました。
 また違う視点としては、私は普段、心理療法として家族の相談に関わることが多いのですが、家族の中の争いの相談を受けることがあります。クライアントは昔は良かったと話すのですが、きいていると争い以前は家族内の優劣がかっちり決まっていた状態に見え、(クライアントは当然最上位)争いはむしろ家庭内の「個」が育ってきた結果ではないだろうかと思えるケース、むしろそう考えると争いの意味がわかりやすくなるケースがいくつかありました。
<ヒトと類人猿の違い>
 ヒトを含めた類人猿は集団と個の共存のため、優劣をはっきりさせたい本能がある。(優劣を巡る争い)加えて一度決まった優劣は固定化せず、すぐに覆したくなる。これが争いがなくならない理由だとわかりました。今度はヒトと類人猿の違いについて話します。類人猿たちは基本は「あるもの」を巡って争います。あるものというはの大きく分けると食べ物と生殖相手です。そもそも優劣を巡る争いというのも弱いものは強いものにこれらを譲ることになっているから起こってくるのであって、実際には眼の前に「あるもの」を巡っての争いなのです。一方で「ないもの」をめぐって争いが起こるのが人間の特徴なのだそうです。「国境」、もともと地面に線が引いてあるわけではありません。すぐには利用に適さない土地であっても「権利」とめぐって争います。「正義」「信念」「名譽」を巡って争いは起こりますが、どちらも眼の前にある赤いリンゴほどの実在性はないのではないでしょうか。人間は「ないもの」に対して争える、命をかけることができる、これを叡智とかんがえるか憐れと感じるか私はわからなくなりました。さらに山極教授の考察では、ハリウッドの映画の構造から、「わけのわからない怪物などに対して人間が果敢に立ち向かって打ち勝つという物語です。中略、我々は人間だ、あるいはアメリカ人だといった集団へのアイデンティティを高めるために暴力がつかわれているのです。」(以上抜粋)と話されます。アイデンティティ(ないもの)をあるように感じるための争いというのが争いを求めるモチベーションとして大きくなってきているという話でした。ほんとはないことを隠すために争いを作るという視点であり、昨今の状況の分析としてみるとすっと腑に落ちると同時に悲しくなりました。
 今回は山極寿一教授の講義録をもとに争いについて考えてみました。優劣を巡る争いについては老子の上善如水(低いところにいるものが一番価値がある。)をはじめとした知恵。「ないもの」を巡る争いについては般若心経にある、一切空の思想(本來ないことを認める)など、人間も多くの知恵を見出しているとは思うのですが、広まっていくのはまだまだのようです。今回は以上です。

28/11/2025

<ふたつのふつう>
外来をやっていて、「どうですか?」と問うと「ふつうです」と返ってきます。「ふつうです」という言葉は外来でもっとよく聞く言葉の一つではないでしょうか。一位はおそらく「変わりありません」だとおもいます。「ふつうです」と「変わりありません」はお互い似た側面があるのですが、今回はより明確なので「ふつう」を取り上げたいと思います。精神科外来で出会う「ふつう」には2種類あると思っています。1つ目は固定的な「ふつう」です。これはあたかも定規の上にふつうという目盛りがあって、それを指で示しているかのようです。レストランのメニューで大盛り、普通盛りとあって、これにしてくださいと指差すときの「ふつう」です。ふつうというある固まった状態があって私はそれですという表現です。日常生活の中でこの種の「ふつう」にであうときは相手は自分とのやり取りを望んでいないのだ、いわゆる気のない返事であることが多いでしょう。精神科外来でも当然同じことが言えますが、(むしろそのほうが多い)診察では別の解釈をする必要も出てきます。固定的な「ふつうです」は患者が「生き生きとした現実との接触」が乏しい、または失っている所見と解釈できることがあるのです。この場合は心がゆさぶられるあまりふつうとは言えない「ふつうです」なのです。
 2つ目の「ふつう」はいわば動的な「ふつう」です。「前回の診察からいいことも悪いこともありました。それらを合わせてみるとだいたい帳尻があっていると思います」というようなストーリーが透かし見えるような「ふつう」です。この場合は前者と違って生き生きとした現実との接触が保たれています。現実に繋がっているので、実際には絵に書いたような「ふつう」の日というのはないのでしょう。ただ合算してみるとどうやら帳尻があっているようだぞという感覚が、「ふつう」という判断の根拠になっているのです。このどうやら帳尻があっているようだという感覚は、別の患者さんだと「いろいろあっても手のひらに収まっている感じ」と表現される方もいらっしゃいます。帳尻があっている。手のひらに収まっている。など、こういったたぐいの感覚はとても健康的な感覚でメンタルヘルスの分野で評価するなら満点。理想的な「いいこと」であるということができます。いいこと、ラッキーなことがつづくことのほうが単純には最上と言えそうですが、手のひらからはみ出していると感じるまでになるとやはり居心地が悪いものです。人はおちつかなくなり、具体的には猜疑的になったり、利益を出し続けることにこだわって強迫的になったりするでしょう。
 こういうわけで帳尻があっている、手のひらに収まっているという感覚はラッキーよりも「幸せ」に近いということができます。当然、「物質的に豊かなこと」よりも「幸せ」に近いということにもなります。一般的には禅語は難解なものですが、今日の文脈で禅語の「足るを知る」(知足)という言葉を引いてみると理解がしやすく深まります。「幸せ」って誰もが知っている言葉で、かつ憧れる状態であるけども具体的には定義しにくいというか、掴みどころのない言葉でもあると思います。しかし感覚的ではありますが「ふつう」、「人生の帳尻があっている感覚」「手のひらの上」「知足」これらの言葉は掴みどころがなく、すぐに何処かに行ってしまう「幸せ」の秘密に触っている言葉だと思うのです。理解の参考になると思います。
 今回は外来でよく耳にする「ふつう」という言葉。気にもとめない人もいるでしょうが、改めて考えてみると、不思議な言葉で奥行きのある言葉であるとおもいます。気づき、発見もあったのでご紹介させていただきました。いかがでしたでしょうか。今回は以上です。

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Takasaki-shi, Gunma
370-3524

電話番号

+81273868638

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